この文章はnorthが学士論文として書いた文書をWeb公開用に再編集/追記したものです。……と書いても来歴も何もわからないので、まず初めに(序文をオーバーライトする形で)趣旨に関する簡単な解説を書いておきます。
「二次創作(を/から)視る」は、そのタイトル通り1、二次創作文化をテーマとして、あるジャンルの二次創作の変遷とその作者にそれぞれスポットを当てながら、二次創作という文化とそれを担う集団の(特にインターネットを介して行われている、文章におけるそれの)特質や構造、そして意味を明らかにしましょう、というどちらかといえば社会学よりの内容になっています。例えば文学としてひとつひとつの二次創作作品を論じたり、あるいは法学や経済学の文脈で二次創作という表現の法的な(経済の中での)在り方を問うたり、という類のお話を中心にした文章ではなく、基本的には社会学とか現代思想(エトセトラ、エトセトラ)の分野において語られるいわゆる「おたく論」2に近いものです。
元々の版の序文では、その研究概要を以下のように記していました。
本研究は主にインターネットを介して発生・伝達される芸術表現形式の実証的研究である。この場合の芸術表現形式とはいわゆる二次創作、すなわち特定あるいは複数の芸術作品(その対象は小説、漫画、アニメーション、映画、ゲームと多岐に渡る)に登場する人物、背景、物語の筋などを流用して新たに作品を制作する手法で制作された芸術作品であり、この研究が実証的であるというのは、本研究で示した仮説、また先行する二次創作についての議論において語られる二次創作の類型およびその制作者像に対して、著者が実際に制作された二次創作の分析や制作者へのインタビュー、参与観察を通してそれを検証するということが行われているからである。先行する二次創作についての議論および本研究で示されるモデルは、その特徴を現象学的実態、すなわち調査によって集められたデータに現れる特徴と経験的に比較することによって検証される。3
序文ということで大仰な表現になっていますが(これはこの文章がちょっとした――そんなに面白くはないけれど――パロディになっているせいでもあります)、厳密に書くとこういうことになります。
さて、そういうわけで本研究は二次創作に関する研究なのですが、「おたく論」と前述したように、「二次創作」という語を考えてみると、それが言葉の発生から常に「おたくによる創作活動」として、おたくに関連付けて論じられてきたのは論を待ちません(詳しくは先行研究の紹介で述べます)。
けれども実際のところ、二次創作を扱った議論の多くにおいては、その担い手として想定したおたくという集団の特質に注目するあまり、二次創作と言う文化自体は(その重要性にも拘わらず)踏み台として扱われているという印象があります。後述もしますが、それらの研究では抽象的なおたく(おたく文化、おたく族、などなど)概念の記述を最終的な目標とすることで、具体的な二次創作やその担い手自体の細かい検証や研究はおざなりになっている場合が多いのではないか(あるいはその逆に、細部にだけ注目していてその仕組みへと向かわないような場合もありますが)、とnorthは思いました。
それゆえこの文章では、先行研究としてそれらの各種「おたく論」に触れつつも、それらの議論でたびたび「おたくの特徴」として添え物的に触れられることの多い二次創作それ自体にむしろ重点を置き、まずその仕組みや担い手である人々について明らかにしよう、そしてという文章になっています。
本研究において明らかにすべき(基本的な)命題を要約すると、「ある作品についての二次創作にはその始まりから終わりまで、特徴的・典型的な作品の出現傾向のサイクルが存在し、その局面ごとに異なった性質を持つ作品と制作者を中心とする」逆から述べると「異なった性質を持つ制作者が代わる代わる参加して全体の趨勢を変化させることで、結果的に二次創作はひとつのサイクルを形作る」ということになります。
また、それが明らかになった上で検討の俎上に上げることになる本研究の(発展的な)命題を要約するとこちらは「二次創作文化が一連の変化を起こすのは、その内部にある構造的な特徴に拠る」さらに言えば「二次創作同士の関係性と参照の問題を繰り込んだモデルを用いることで、二次創作の一連の変化を含めた仕組みを記述できる」ということになります。
後者はともかくとして(こちらは先行研究を知らないとわかりにくいので、説明は本論に譲ります)、前者のような「文化には移り変わりがあるんだよ」というような主張は特に証明の必要もない自明のものであるようにも見えますが、その実(二次創作についての議論を追いかけると)、その妥当性はいったん実証的に証明しなければならないように見えます。
実際のところ、その変化やモデルを証明・検証しようとすれば数多くの二次創作とその制作者を調査せねばなりません。けれども、これまでに制作されている二次創作を余すところなく分析し、またその参加者にあたるということは明らかに実行不可能です。しかし、「例えば言語学者はある言語におけるすべての語彙項目を知らずとも、その言語に関して極めて妥当な構造的陳述を行うことができる。」4というわけで、本研究ではある特定のジャンル、形式の二次創作の作品と作者をサンプルとしてその構造を記述することを試みています。具体的には、二次創作の対象となる作品の例として『新世紀エヴァンゲリオン』という一作品(と傍証としていくつかの他作品)を選び、それを対象にして行われた二次創作とそれらの制作者に対する詳細な分析を試みています。
ある特定範囲の二次創作についてその変化の過程を研究するということは多くは試みられていません。先ほど述べた通り「ある文化にはその発生から終焉まで、一連の典型的な過程が存在する」という命題は文化現象一般に当てはまりうるような事項であるにも拘わらず、です。これは(全然、目新しい話ではありませんが)前提としてはある程度妥当に見えるにも拘わらず、経験的な知識が同人誌を題材にしたエッセイなどに散文的にその過程が記されることはあっても、二次創作自体の変遷とその構造は研究の俎上には上がってきませんでした。
これは多くの場合、二次創作の研究がおたく研究の理論を作るための補助か、あるいは作品のカタログ作りのどちらかとして行われていて、その内部での変化や多様性をある程度黙殺することによって成立してきたからではないだろうか、とnorthは考えました。
それゆえ、この研究においてまず重きを置いたのは二次創作において出現する個々の作品や制作者を分類した上で、全体の過程についての予想やそれを語る理論とのつながりを考えることでした。ですから対象とする作品も「特定作品(今回の場合『新世紀エヴァンゲリオン』)についての二次創作のすべて」と設定し、やおい5 小説などの特徴的な傾向を持つ作品群に絞りませんでした。
以上のように様々な傾向をもった作品と作者を実際に見た後で、初めてここまでの議論で出てきた理論にそのような傾向の変化を起こす原因を含む形の修正を加えてみよう、というのが最終的な目的になります。
問題を取り上げる順序としては、まず二次創作の分野でこれまでになされてきた研究を概観し、そのうえで本研究におけるアプローチの方法と検証すべき仮説を設定することから始め(第二章)、次に特定作品を例にとり、その作品についての二次創作が実際に辿った趨勢を大きく辿って仮説全体の流れを検討します(第三章)。さらに、そのような検討を受けて、今度はその参加者達へのインタビューと個別の二次創作の内容から、より仔細な検証とその補足を行うことになります(第四章)。そして実際のデータからの検証の後(第五章)、既存の研究における理論との接続、およびそれらの反証を行ったうえで(第六章)、最終的な結論へとつなげる(第七章)という流れになっています。
目的及び趣旨の説明は以上ですが、本文に入る前に編集・追記の方針などついていくつか注意などを書いておきます。
この文章はもともと(いちおう)学士論文であったということで、それに見合うように論文論文した調子でした。しかし、今回はWeb上で公開することを加味して、もう少し文章を読者に対して(安全に)開くことを目的として
以上3点を実現するためリライトしてあります。
このため、文章としては論旨がわかりにくいところ、未完成度が上がってしまっているところがあります。
特にそれが大きく露見する部分は、第六章において提唱される参照系モデルの議論と、それに合わせて訂正された部分です。元のバージョンは基本的には仮説検証型の論文の体裁を成していて、先ほど基本的な命題として記した二次創作のサイクル、またはトレンドについての仮説を実際の状況から検証するというものでした。結果としてはある程度当てはまる、という所に落ち着き、発展的な命題として示したモデルについては触れる程度で留めていました。
けれども、今回は元バージョンでは切り捨てていたそのモデルの検討の部分を本格的に復活させることにしました。よって第五章以降はそれまでの検証の考察に加えて、新たにそのモデルの考察と検証を行っています。また、その変更に合わせて、それ以前の議論にも再検討が加えられています。
それからもうひとつ。今度は逆に、読者対象の違いにも拘わらず残した記述について。少しだけ。このサイト(N.S.S.)はご存知の通りバリバリ? のエヴァ二次(そして、割とメタっぽいお話を書くと言われているらしいnorthの)ウェブサイトであり、恐らく読んでいる人にはエヴァ二次についての(もしかすると、所謂「オタク論」についても)知識をnorth以上にお持ちの方々もいらっしゃるであろうと思います。
けれども、この文章はその出自や問題設定から、そういう方へピンポイントに合わせるのではなく、二次創作というものについてはもちろん、昨今――90年代の終わりから新世紀の初めにかけての時期からそれ以降にぽこぽこ出てきたオタクに関する議論や、エヴァの二次創作の来歴を知らない人でもとりあえずは読めるように、それらの基本的な背景を補いながら状況を追いかけていく文章になっています(いちおうはそのつもりです)。
このあたり、既にファンとしてエヴァやその二次創作を知っている人には冗長だ、あるいは物足りないと思われる向きもあるかもしれませんが、辛抱してお付き合い下さい。
(同時に、このような冗長な部分は――特に歴史のことを追いかけているところについては、エヴァ二次は好きなんだけど、昔のことはあんまり知らないなあ、という人にとってはもしかしたら導入の役割を果たすかもしれません。……とはいえ、今回扱っている歴史については、ある程度偏らないように注意しつつも、論旨の関係で捨象された部分が多く存在するというのは本文でも述べる通りです。エヴァ二次の歴史は本当にきっちりと追いかけていくともっと入り組んでいたりして意外と楽しいので、本当は誰かエヴァ二次の歴史をnorthよりずっとよく知っている人が「教科書には載らないエヴァンゲリオンの二次創作小説の歴史教科書」でも、「新世紀エヴァンゲリオン二次創作序説」でも(まあ、名前はどうでもよい)、書いてくれると良いのですが、まあひとつの参考として)
それでは、長い枕はこの辺にしましょう。
二次創作とはどういう表現で、どこから来て、どこへ行くのか。
この研究をきっかけにして、この一見しょーもないように見えてやっぱりしょーもないかもしれない表現にこっそり潜んでいる(かもしれない)ものを、みなさん自身で考えてみていただければ、と思います。最後になりましたが、後書きにもあります協力者の方々には、もちろんこの文章がWeb公開版としてリライトされる際にも大変お世話になりました。ありがとうございます。
二次創作という語は、序論においても述べたとおり、元々が同人活動(中でもアニメや漫画を対象とした、いわゆるおたく6 文化)の中で生まれた用語であり、厳密な定義は困難である。しかしそれを最も大まかに定義するとすれば、映画、小説、漫画、アニメ、ゲームなど創作物の人物(キャラクター)や背景となる設定(世界観)、プロットの一部などを使用して別の作品を制作する行為、またそのようにして作られた創作物そのものを指す造語ということになる。
これはパロディ、オマージュ、アレンジ、バスティーシュなどと言った用語と近い意味であり、アニメ、漫画等の分野におけるそれについてはまさに「アニパロ」という名称が一般的であった。7
現在このような作品群一般を指す同様の名称としては、他に「版権物(版権もの・版権モノ)」という名称や、海外で主に用いられる「FF」(Fan Fiction)という名称、場合によってはより短い作品を表す「SS」(Side(Sub/Short/Second) Story)などの名称がある。8 また、そのような大きな枠を示す語の他にも、特徴的な傾向を持つ作品を指す語として、作品中の男性人物・キャラクター同士の恋愛関係を読み込む場合の「やおい」9 や「スラッシュ小説」10 などといった語が存在する。
二次創作という語は二つの、ともすれば矛盾すると思われる意味を含む。大塚英志は二次創作という語から同時に読み取れるそのような志向について以下のように述べている。
「つまり『二次』と言うからには当然、『一次』、すなわちオリジナルの所在を認めている。しかし一方では『創作』という言い方でオリジナリティを暗黙のうちに主張している、そういう言い方のように僕には感じられるのです。」11
二次創作という語のうち、「二次」という言葉に着目するとき、そこには「原作(いわば一次創作)」は二次創作よりも一段高い場所に存在するという考え方が予め含意されていることがわかる。例えば「おたく」という語や「やおい」などという語に含まれるのと同様に、この語は蔑称という意味合いを含んだ語であり、そこは原作への引け目が垣間見える。12
しかし同時に、後半の「創作」という言葉に注目するとき、そこに読み取れるのは大塚の言うように原作のアレンジ、パロディとしてありながら原作者と同様に自らのオリジナリティを主張する考え方である。そこには引け目どころか、原作をまるで材料のごとく扱う姿勢も読み取れる。
この言葉に象徴される二つの含意が二次創作(あるいは前述したような、それとほぼ同義の内容を示す)という表現にどのように関わりあっているかはこの芸術表現あるいは文化現象を研究するときの中心的な問題となる。
前述したように、二次創作やアニパロと呼ばれる表現はおたくというものの付随物としてまず、見出されたものである。その創作と鑑賞、消費との区別をつけにくい形式はおたくに特徴的なもの、その姿勢の反映として語られてきた。それゆえ常に二次創作という語はおたくという集団、現象に付随する事物や現象として「二次創作=おたくの特殊な文化」という構図で語られてきたし、今でもそれは変わってはいない。したがって、二次創作について論じようとするならばまず「おたく(あるいはオタク)」という概念を出発点とせねばその検討は避けられない、ように見える。
無論、それは一面では間違いではない。後述するおたくを巡る議論の多くが二次創作にどこかで触れざるを得ないこと(そして各論者の研究が想定したおたく像の反映となるように、その評価が決定的にずれているように見えること)、そして現に今「オタク産業(として大雑把に認識されている、CD、DVD、書籍、ゲーム、周辺のグッズなどの商品や作品そのものを売るビジネス)」の中で造られるものの多くがなんらかの版権物の、いわば二次創作として作られ、また現に今回話題にする新世紀エヴァンゲリオンの二次創作や、その他の二次創作を母体にする作家達がそれらの領域で実際に作者側に回りつつあることを見れば、両者の間にある関係性の強さは明らかである。
けれども実際のところ、それら二次創作を扱った議論の多くにおいては、その担い手として想定したおたくという集団に注目するあまり、二次創作と言う文化自体は(その重要性にも拘わらず)、おたくを記述するための手段として扱われることが多く、それ自体の研究が目的にはなりにくい部分がある。また、そこでは「二次創作」という言葉が指すものが議論の従となり、論者ごとにその範囲、事物が異なってしまい、全体としてその概念が混乱してしまっているという状況がある。
例えば東浩紀、大塚英志、斉藤環といった論客はそれぞれの立ち位置から二次創作の研究に貢献しているが、それらは彼らのそれぞれが述べる「おたく論」の傍証としての研究であり、それぞれに有益ではあるものの、同人誌などを系統的に調査して研究しようという意思はそれほど感じられない。13
他方、系統的な研究という意味では、コミケ(コミック・マーケット)などで流通する同人誌を対象とした『アニパロとヤオイ』14 や商業作品の同性愛表現(ボーイズラブ)を中心にして分析した『やおい小説論』15 などのやおい表現を対象とした研究や、コミケにおける同人誌の趨勢を時評として記述した『漫画同人誌エトセトラ』16などが実証的な研究として挙げられるので、そのような抽象的な研究のみであるとは必ずしも言えない。しかし、これらの研究はそれぞれ実地研究として資料的価値は高いものの「おたくとはいかなる存在か」という議論にはそれほど関わってくることはないため(また、やおいに関する議論に関しては一部の女性層のジェンダーの問題としての議論が行われることが多く)おたく論を中心とした仕事が注目されやすい流れの中ではむしろ傍流とされていると言えよう。
流れの中心にあったと目されるおたく論やその周辺にある「萌え」論等の延長としての二次創作論における中心的な著作としては、前述した斉藤の『戦闘美少女の精神分析』17 と東の『動物化するポストモダン』18 が挙げられる。両者は2000年代以降のおたくに関する議論の流れを作った論であるが、それぞれ大きく異なった二次創作や制作者像の説明を行っている。斉藤環は、おたくのセクシュアリティの分析として、そして東浩紀は、おたくの変化とその消費傾向の変化に関する分析として二次創作を取り上げた。両者の議論を比較すると、そこで語られるおたくのイメージの差異の影響を受けるように、論者の中にある「二次創作」のイメージの差異は大きい。
両者の対立については特に取り上げられるところも多い議論であり、また特に東浩紀の理論については本論中で特に中心的に取り扱うので、次項にさらに詳しくその著作中において本論と関係する論旨を記すことにする。
斉藤は『戦闘美少女の精神分析』において、おたくについて(記述によって捉えることの限界を指摘した上で)その特徴を以下の四点にまとめている。
それぞれ非常に難解な表現だが、直接的に二次創作の議論に関係する部分は「虚構化」の部分である。ここで「虚構化」は、斉藤によって、虚構コンテクストへの親和性の高さに次ぐおたくの二番目の特徴として、愛着物としてモノを志向するマニアとおたくとを分ける重要な条件、として扱われているが、それこそが、即ち二次創作の制作、特に「SS」20の制作にあたる。これは二次創作という表現ではないものの、ほぼ同等の内容である。そこでは「SS」の意味と動機は精神分析の見地から説明される。
斉藤によれば、「SS」制作者の動機は、不特定多数に向けて制作された作品を自分だけの作品へと作りかえることであり、コスプレや同人誌といった近い要素を含む活動も同様の動機によるものとして理解されるべきである。また、このような創作活動はパロディや評論といった効率の良い創作活動とは区別される。21 それはあくまでも「作品をみずからに憑依させ、同一の素材から異なった物語を紡ぎ出し、共同体へと向けて発表する」22 行為であり、制作者による「所有の儀式」23 である。ここで想定される制作者は「自分の愛好する対象物を手に入れる手段として『それを虚構化する』『それを自分の作品にする』という方法しか知らない。そこに新たな虚構の文脈を作り出さずにいられない。」24 人々である。
他方、斉藤の著作を受けた東はポストモダン思想の見地からおたくの(東自身は「オタク」の語、およびその文化として「オタク系文化」の語を使用している)二次創作25 について論じている。東によれば、二次創作はその制作者や受容者にとって、原作と等価値で消費される。26 このような様態の創作物はジャン・ボードリヤールが予見したポストモダンの社会におけるオリジナルとコピーの区別が曖昧になったシミュラークルの様態に合致しており、すぐれてポストモダン的な現象である。
また東によれば、現在の中心的な二次創作の制作者・受容者であると思しき「第三世代」27 のおたくは、より前の世代のおたくが実際に見える物語の一部を入口として、その背後にある「大きな物語」を消費していた(物語消費)のとは異なり、作品をその背後にある「データベース」である深層とそこから様々に読み込まれて視聴者が受け取る表層の物語として(さらにはキャラクターも、データベースにある「萌え要素」の集合として)理解し、背後にある「データベース」を消費している(データベース消費)。
彼らにとっては原作として読み込まれた表層の物語と二次創作は共に深層にあるデータベースを読み込んでいるという点で同様の意味、価値を持つ作品として理解される。よって二次創作を作るということは原作に対する反抗などにはなりえず、それゆえに「二次創作の作家にはそのような(過激で無政府主義的な――筆者註)攻撃的意識は見られない。彼らはむしろ、一方で原作を躊躇なくパロディ化し、切り刻み、リミックスしつつも、他方でその作業をまったく原作の侵害と考えておらず、原作者のクレームが入ったらすぐ二次創作をやめてしまうような保守性をもっている。(括弧内筆者、同著作より引用して補足)」28。
こうして並列すると、両者の二次創作に対する記述が明らかに食い違っているのがわかる。その中心的な対立点は以下にあげる二点である。ひとつは二次創作という活動を、原作を受けたまさに二次的なものと取るか、それとも原作に並行しそれと同等に扱われうる活動と取るかという認識の差、そしていまひとつは、制作者の動機を個人的な問題に深く関わるものとして捉えるか否かという認識の差である。全体に、斉藤の二次創作の見方は原作よりの「二次」という面に重きを置いた見解であり、東の見方は原作に拘らず創作よりのまさに「創作」という面に重きをおいた見解になっている。
しかし考えてみれば、同じものを見ながらこれほどまでに見解が食い違うのは両者の目指す理論や立場の違いを考えても奇妙なことである。両者がそれぞれの理論的見地からの「おたく」の理論化を主眼にして研究を行っているとはいえ、それぞれ実際の二次創作やその制作者を観察せずに理論を構築しているとは考えにくい。29また、実作者として二次創作の制作を経験した者としての経験的な感触からも、両者の見解はこうして大きく食い違っていながらも、共に二次創作となによりその制作者のイメージをそれぞれある程度反映しているように思われる。
このような奇妙な齟齬については、まさに両者の論をめぐって(発端としては、『戦闘美少女の精神分析』をめぐって)行われたインターネット上の討論『「戦闘美少女の精神分析」をめぐる網状書評』において、竹熊健太郎が「密教オタク」と「顕教オタク」(「オタクを逸脱するオタク」と「ミーハー・オタク」)という概念を用い、対象が複数の異なった性質を持つ種類に分類できる可能性を指摘している。30
これまで概観したように、二次創作やそれに類する表現に関しては主に収集を行っている研究と主に理論化を行っている研究の間に乖離が見られる。前者においては個々の二次創作を追いかけ収集することに重きが置かれ、その分析については時評やレビューなどの形で時々のトレンドを追いかけるものになり、細かい変化は記述できるが全体としてはまとまりと一般性に欠ける。他方後者においては、制作者として想定したおたく全体に当てはまる一般的な性質を抽出し、理論化することを目的として研究が行われ、実証的な資料が示され難いため必然的に作品や作者の性質の変化や内部の多様性が考えられ難く、一面的な見方が強くなりやすい。
たとえば先に紹介した永久保陽子によるやおい小説の研究などは、詳細な作品の収集と分類を行ったうえでその構造と意味の分析に踏み込んでおり、このような乖離の問題を乗り越えている。しかし対象については「やおい小説」という「読者のみならず作者に至るまで、その90%以上が女性という性別の偏り」31 をもつやや特殊な、受容者を一集団として把握しやすいことが初めから承知されているジャンルの分析に絞られていた。(無論、その目的は二次創作の記述ではなくやおい小説受容者の性についての意識にあるのだから、そのような絞込みは正しい)
以上を踏まえ、本研究ではいったん前提となる「おたく」という部分を既定のものとせず、二次創作それ自体に焦点を当てる研究を行いたい。もちろん先にも述べたように現在ある形での二次創作文化の発端としておたくの文化があるということは忘れられるべきではない(否認されるべきではない)。けれども、初めから前提として「おたく」という語を考えると、その概念で議論を縛ってしまい、例えばそこからこぼれた周辺層や、おたくの文化から外れた部分があったとしてもそれを扱うことはできなくなってしまう。即ち、おたくを前提にした議論では自分の定義したおたくしか見えない。すでにおたく論が乱立する今となってはそのような議論にはそれ以上の発展性はないだろうと思われるし、二次創作という文化の全体像も見えないままになってしまうだろう。もちろん結果として、研究の結果これまでに述べられている様々なおたくのイメージを持った集団の複数またはいずれかが制作者として見えてきて、既にある各種の理論が結び付けられるなら、それは構わないし、本研究は最終的にはそれを目指す。しかし、それはあくまでも実地的な研究、そこに見えるものから出発するべき議論である。32
以上のような問題意識に基づき、今回は対象とする二次創作と制作者の傾向を縛らないために、特定作品についての二次創作全体を範囲としてその範囲に現れる二次創作及びその制作者を調査、分類するというアプローチを取って分析を行った。
本研究では二次創作の一例としてインターネット上に存在する、主に『新世紀エヴァンゲリオン』についての、日本語による小説の形式をとった二次創作とその制作者を主に取り上げて分析を行う。
『新世紀エヴァンゲリオン』は、1995年10月4日から1996年3月27日まで全26話がテレビ東京系列で放送されたアニメーション作品、およびその続編あるいは完結編的な位置づけをされる、1997年3月15日に、および1997年7月19日に公開された劇場用アニメーション作品である。また場合によっては漫画版やゲーム版などの関連商品も含まれる。
同作はロボットSFアニメとして様々な設定をちりばめた衒学的なつくりや、それまでの展開を放棄して一転して心理ドラマとして終了した最終回などの特徴的な展開で話題となり、社会現象といわれるほどの人気を博した。
同作を対象として選んだ理由は主に以下に挙げる四点である。
本作を取り上げることには以上のような利点がある。しかし同時に、本作はその社会的な影響の大きさなどの点から生じる特殊性や、発表された年代の社会状況、時代背景などの影響を多く受けるのではないか、という問題もはらんでいる。よってその点については随時他の、特に発表されたジャンル(アニメーション)や時期(1990年代半ば)が異なった時期の二次創作の例を見ることで補完したい。
また、二次創作の形式としてインターネットを中心にして発表される、しかも小説形式の二次創作を対象として取り上げた理由は主に以下に挙げる三点による。
一点目について。インターネット上の小説分野の二次創作は、同人誌における活動に必要な多数のスタッフの協力、組版などの技術や絵を描く能力(漫画同人誌の場合)、長時間にわたる製作期間、出版流通のコスト33 などを必要としない。インターネット上に公開する際に特徴的に必要となるものとして、HTML文書の作成技術やサーバーの知識が挙げられるが、これは上記の多岐に渡る技術に比べれば敷居としては低いと考えられる。また、例えばこのような知識を持っていなかったとしても、掲示板などの技術や投稿(既にあるウェブサイトの主催者と連絡を取り、作品を掲載させてもらう)といった手段を使えば、基本的には「日本語が書ければ」制作することが可能である。34
二点目についてはあるいは異論もあろうが、インターネット上では失われてしまったサイトや文章が大量にあるとはいえ、例えば同人誌について過去10 年に発売されたものを集めるということが難しいことを考えると、網羅性がより期待できよう35。
三点目については、全体の傾向としては当てはまっていると考えてよいと思われる。小説分野においてもごく短いシナリオ的なものは当然見られるが、漫画表現が多くを占める同人誌では、前述したようなコストの問題から大長編の漫画作品を作ることが難しく、相対的により短い作品が多くならざるを得ないからである。
調査対象の選定理由は以上の通りであるが、実際の研究方法としては、二次創作とその周辺の情報を探る文献(インターネット上の作品と記事)調査、およびインタビューを中心とした。これら調査の具体的方法に関しては第三章および第四章において、それぞれ詳細を記す。
また今回は、このような調査と同時に参与観察(的な研究)を行った。これについては直接の調査結果としては現れていないが、文献調査およびインタビューを行う際のバックグラウンドとして(特に、メッセンジャーでのインタビューに継続的に協力してくれた協力者は、このような活動無くしてはおそらく得られなかった)重要な役割を負ったため、ここでその経緯について少しだけ触れておく。
本調査に先駆け、2004年9月より二次創作に関するウェブサイトを開設し、実際に二次創作の制作と発表を継続的に行った。結果として、2006年12月の段階で延べ30万弱の訪問者(一日当たりの訪問者数で言えば、更新時で1000人弱、非更新時で200人程度――これは2007年8月時点でもやや減少つつもほぼ同様の値を維持している)を数えた。このような活動を通して、数人の二次創作ウェブサイト主催者やその読者とつながりを持つことができた36 他、既に原作の放映から10年が経過していながら、二次創作という表現にいまだ多くの受容者が存在するということを実感として確かめることができた。また、自分が実際に制作者側に回ってみることで、その手法の特徴や趨勢を実感として理解することが可能になった。
二次創作についての仮説を設定することは、二次創作とその制作者をどう位置づけるかという問題への暫定的解答を示すことである。この問題については第二節で触れたように、既に東と斉藤による二種類の説明が説得力のあるものして提示されているが、本研究ではその成果を重視しつつも、それらとは異なり、二次創作を通してその制作者の「おたく」的性質を洗い出すというアプローチをとらない。本研究では二次創作について一足飛びにその全てを貫く一般的な性質を現す理論を述べるのではなく、ひとまずはそれを作品と制作者の移り変わりとして捉え、その推移の型として一般化しようとする。
想定される具体的なストーリーはこうである。二次創作はそのごく初期の段階では原作との強い関わりの中にある。そこでは原作を尊重した(原作の流れに準拠しようとする)二次創作が目立ち、製作者の動機も「原作の所有」「原作への反発」のような原作と深く関わったものになる。しかし時代が下るにつれてそのような強い関わりは失われていく。原作との関連性が薄い二次創作が増え、制作者の動機も原作への欲望からは遠のいていく、あるいは、原作への欲望がそれほどない制作者の活動が目立つようになる。そしてその最終段階では、原作と二次創作とを等価のものとして扱うような二次創作、さらに、そのような傾向をさらに推し進めた原作と二次創作の関係が逆転したような作品や二次創作同士の関係から成立した作品をも見ることになる。
以上が想定される典型的な推移であり、その流れを大まかに模式的に表すとすれば作品に表れる原作への準拠・非準拠および制作者側の志向という二軸をもって捉えることが可能である。
「準拠−非準拠」の軸とは、作られる物語の形態を、原作と比較して分類する軸である。前者は原作の世界観やキャラクター、プロットといった諸要素に準拠し、またそれらを引き受ける形で成立する物語を志向する傾向であり、後者は逆に原作の世界観やキャラクター、プロットといったものを要素として切り分け、あるいは複数の作品を混在させたり、新たな特徴を付け加えたりするなどして成立する、原作とは繋がらない物語を志向する傾向である。前者の傾向が強い二次創作は原作との親和性が高く(原作との齟齬が小さく)、逆に後者の傾向が強い二次創作は原作との親和性が低く(原作との齟齬が大きく)なる。もちろん、個々の作品やジャンルをどちらかにはっきりと分類できるものではない。実際にはその両者の特徴を併せ持っている作品も多く、ここではあくまでも目安としてその傾向を表すために用いる。
また、「原作志向−創作志向」の軸とは、制作者の姿勢を原作への愛着によって比較する軸である。前者はファンとして、原作の思い入れの発露、原作の所有や補完として創作を行おうとする傾向(これは斉藤が述べたような「原作の所有」的な二次創作の振る舞いをよく表しているが、ただ、それは必ずしも斉藤の述べる形式に留まるものではなく、自らの納得できない原作の書き換えなども含まれるだろう37)、後者は逆に、むしろ原作の思い入れというより自らの作家性の発露として創作を行っており、創作においてよりオリジナリティを発揮しようとする傾向である。後者については理解しがたい部分があると思われるので補足すると、創作志向(作家性)」の強い二次創作という方向性を持つ二次創作、それらの作品の作者は、なぜ作家性が強く、自らの物語を語ろうとするにも拘わらず二次創作という形式を取る必要がある理由としては、「二次創作の読者人口」、「原作の存在による気楽さ・自由度の高さ」、「人気筋の把握のしやすさ」、そしてまた「二次創作という形式・二次創作のジャンル自体への拘り」などが考えられるが、その実際の状況についてはインタビューの項にて詳述する。
さて、以上定義した二軸によって予想される状況を仮に、最も簡単に図示してみると以下のようになる。
この図を見ると、これは言い換えれば「二次」から「創作」への変化、すなわち斉藤的な型から東的な型への直線的変化を表すものである、と結論付けたくなる。確かに、前述したような両者の論を見れば斉藤的な「SS」はおおかた「準拠-原作」の象限に、東的な「二次創作」はおおかた「非準拠-創作」の象限にあり、それぞれが二次創作の出発点と到着点を示しているように見える。
けれども、そのような単純すぎる理解は少し危ういように思われる。というのは、このような直線的変化によって捉える視点は、二次創作を書こうと思い立つ制作者たちが原作をどのように受容するかによってそれぞれの作品についての二次創作が辿る推移がやや異なったものになってくる可能性について留意していないからである。
ここで注意しなければならないのは、原作の受容者が必ずしも単純なファンとして動くとは限らないことである。同じ原作へのこだわりでも、作品自体を肯定的に受け取るか、否定的に受け取るかで、その表現形態はおのずと異なってくる。よってより仔細には、そのコースは次頁に図2のいずれか、または両方の混合状況のような幅を持ったものになることが予想できる。作品が肯定的に受け取られれば後々まで原作は尊重されうるが(図2-矢線a)、逆に作品が否定的に受け取られれば、比較的早い段階で原作における設定などの約束事は積極的に無視されることになるだろう(図2-矢線b)。
次章からは、このような仮説を実際の二次創作の推移の調査とインタビューから検証、反証、補足していき、さらにその後に、このような推移のメカニズムから、既存の理論への反証及び、推移のメカニズムを繰り込んだ修正へと議論を展開させてゆくことになる。
本章では第一章、第二章で述べたように『新世紀エヴァンゲリオン』についての二次創作を研究対象として、実際の二次創作におけるジャンルの趨勢など、全体の傾向の変化や周辺状況の変化を調査することで、先に示した予想を検証する。
具体的な方法としては実際に調査対象となる作品群を調べてそれを分類し、歴史的推移をトピックごとにまとめた。書かれた作品についてその全てを読み分析することは不可能であるので、ファンによる投票の結果やリンク集サイトなどを活用しつつ、人気作を中心に読み込み、分類と分析を行った。紹介したジャンルにおける代表的な作品については脚注に詳細を記載し、また文末に参照URLリストを掲載する。なお、初期の作品にはウェブサイトが消滅し散逸しているため実際に読み込めなかったもの、当時の歴史的な経緯を調査するのが難しかったものもあるが、それらについては御影渦音による『EVAFF史年表』38 やumaによるウェブサイト『綾波展』内の年表39 、長久勝によるインタビュー集『祭のあと』40 などの資料を参照して記述した。(また、ジャンル名称などについては、文中でもそれぞれに触れたが、補章1に別項として再度まとめた)
それでは二次創作の推移を見る前段階として、『新世紀エヴァンゲリオン』が放映された1995年当時の日本のインターネットの状況を作品の周辺状況と併せてごく簡単に押さえておくことにする。
日本おける個人レベルでのインターネット利用が始まったのはおよそ1994年、一般的な利用となると1995年頃まで遡ることができる。41 それに対して『新世紀エヴァンゲリオン』が始めてメディアに姿を現したのは本編放映に遡ることおよそ10ヶ月前、1994年12月の『少年エース』紙上においてで、広く公開された二次創作小説が始めて姿を現したのは1995年8月末、当時パソコン通信「Nifty」上に開設されていた「NIFTY SGAINAX(ガイナックスステーション)」におけるエヴァンゲリオンのコーナーにおいてであるという。42 日本におけるインターネットの黎明期と共に、『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作は生れ落ち、歴史を刻み始めた。
1995年当時、インターネットは技術者や大学生による活動が多くを占め、一般的なファン層の活動の場はNiftyであった。それを反映するように、初期の二次創作はNiftyフォーラムを中心として発表された43。ここでの作品を見ると、早いものでは既に放送開始とほぼ時を同じくした時期に『ほーたい少女アルピノ・レイちゃん(まんりき)』などの作品が発表されていた。44 この時期の作品については、いまだ本編のストーリーが明らかになっていない45 ことを考えると、本編の設定を基にして大幅に再構成を行うタイプの作品ではなく、むしろ本編に連なる短いストーリーやキャラクターを使用したギャグ作品であるとみられる。
以降、テレビ放映において本編のストーリーが進むにつれて、展開予想的な動きから、本編の結末を予想し後日談を考察するタイプの作品46 や、既に放映された本編のいずれかの時点から物語が分岐した世界を描くなどの、後に「分岐物」47 と呼ばれるような作品48 が登場した。これらの作品については長編作品もいくつか見られ、その形式を見てもこの時点でファンによる創作は本編と齟齬のない短編形式を主体としつつも、既にそこから少しずつ逸脱を始めていたといえる。
さて、そのようなNiftyの盛況に対し、当時のインターネット上の二次創作の状況を見てみれば、それらを扱うウェブサイトが増加し始めた時期はちょうどテレビ版の放映終了直前ごろから映画版の公開にかけての時期であるという。49 ドラマを収拾せずに終わった謎だらけの最終回による注目、ファンの不満足感などがあいまって多様な作品がインターネット上にも公開され始め、その普及と共に徐々に活動の中心となっていった。
この時期の作品を見てみると、本編の最終回で描かれたパロディ的な世界(学校を一部舞台にしながらもその基調はSFアニメ・ロボットアニメであった本編とは全く違う、いわゆる「学園ドラマ」風の世界)を舞台にした「学園物」50 や、それ以外の(中世ファンタジー風など)異世界を舞台にした「異世界物」などといった、作品の舞台を入れ替える形で原作から逸脱する二次創作がこの時期から存在している。
このように『新世紀エヴァンゲリオン』における二次創作はかなり初期の時点から原作の設定を踏み越えた発展を見せているが、このようなジャンルにおいて原作に端を発する「学園物」が特別な名称を得ていることからも判る通り、原作において設定が示されたかどうかという判断が一定の規制として働いているという点には注意が必要である。
この時期にはその他にも、本編の正当な終了に伴ってその後日談を創作する「アフター」などと呼ばれるタイプの二次創作の増加や、複数作品を混合する「クロスオーバー」と呼ばれるような作品の走りとなる作品51 、物語自体を設定・キャラクターを変更して書き直す「再構成」の走りとなる作品52 の成立などがあり、現在ファンが用いる作品分類において主流になっている形式は(ジャンルを形作るほどではないとはいえ)かなり出揃ってきていた。
このような本編の世界観やストーリー自体に変更を加える二次創作が出てくるのと前後して、キャラクターの読み替え・改変が激しくなってゆく兆しが見えるのもこの時期である。53 この時期に発祥したキャラクターの改変の一部は現在にも大きな流れとなって続いていった。
前節に挙げたような諸々の形式は、以降にジャンルとして発展を始めることになった。そのような発展に大きな役割を演じることになったのが、1997年ごろ以降強力に充実しはじめた投稿系ウェブサイト(投稿サイト)である。54
既に記したように、投稿サイトでは例えばウェブサイトを作る技量やコストが負担できない制作者も、投稿という形式で二次創作に参加することが可能であり、二次創作の裾野をさらに広げたという点だけでも投稿サイトの存在は大きい。
しかし、それ以外の効用もあった。投稿サイトはその性質上、必然的に多数の参加者を一緒くたに呼び込むことになる。つまり、そこではある投稿者の作品を読もうと思い訪れた読者が目的とは別の作者に手を出す、といった思いがけない出会いや、投稿者同士の交流などが起こりやすい状況にある。そのような状況にあっては、投稿者の多くが個々のウェブサイトにおいて孤立した状況にあった時期よりも、他の二次創作やその系譜、ジャンルを意識しやすくなると考えられる。
その推論を裏付けるように、映画版完結編の前には既に二次創作のさらなる二次創作である、いわゆる「三次創作」55 的な作品が登場56 している。制作者が他の制作者の二次創作を読み、その要素を取り入れらさらなる二次創作を行い発表する、ということが短期間に起こるこの即時性は、以降の二次創作の変化を後押しする力としても捉えられるだろう。57
またこの時期にはその他にも、キャラクターを(多くは物語の最初の時点まで)タイムスリップさせてしまう、というキャラクターの改変と「再構成」の混合的な動きである「逆行」(時間逆行)の走りとなる作品58 も登場するなど、まさに発展期と言ってよい状況を示す。
1997年は『新世紀エヴァンゲリオン』にとっては特別な年であった。テレビ版のリメイク作品である劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』が公開したためである。この完結編により原作は完結したが、しかしそれは決して解りやすいハッピーエンドではなかった。
そのような状況の中、ファンを突き放した結末を補完するように、キャラクター同士の恋愛関係(カップリング)を主軸として明るい物語を描く作品を初めとして、それ以前の時期から続くキャラクター改変への熱は高まっていった。
これらはいわば自分にとって都合の悪い原作の結末を見なかったことするという形のファン心理の表れであるとも見ることができるだろう。そのことを示すように、これらと同時期に起こった、原作とつながる後日談によって作品を再度完結させようという「アフター」と重なり合った流れにある人々と、これら明るいラブストーリーを志向する人々との関係は総じて悪かった。それどころか、一部ファンの間ではそれぞれの信仰告白にも近いような激しい論争59 が繰り広げられる事態となった。60これはひとつには本作の社会的な影響の大きさを示すものであり、そのまま一般化はできないが、ファン内部においても複数の層が存在していたという示唆としては興味深い。
さて、この時期以降、映画版公開と社会現象とまで言われたブームの影響によって多くの新規作者・読者61 の流入、ウェブサイト数の増大が起こり、「アフター」、「再構成」、「逆行」、「分岐」などを中心としていくつもの作品が生み出されていくことになった。
このようなまさしく百花繚乱の状況下でかなりの量の物語の展開パターンが出揃い、そのうちで汎用性が高いパターンは良くも悪くもジャンル内のいわば「基本形」として確立され、そのような基本形を意識して確信犯的に作られた作品と共にその数を増加させるにつれ各ジャンルの独立性と影響力を高めていった。そして、以降の二次創作は否定的であれ肯定的であれ、多くはこれらジャンルの影響下に成立することになった。その傍証としてこの頃には、これらのジャンルによって作品を細かく分類した更新情報ウェブサイトが設立されている62。
後から見れば、この時期は『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作においては一番活発に活動が行われていたころにあたり、後に起こる作品と対比してその作品の質の高さを述べる語りも見られた。だが、後の歴史を見れば、この時期に成立した基本形こそが、2000年代以降に制作された原作を介さない、極めて「三次創作」的な二次創作や、設定が極端に先鋭化した二次創作の盛況の遠因となっている。
さて、テレビ版の放映から3年ほどが経ったこの時期、二次創作周辺の状況を見てみれば、個々の制作者が原作を見て思いのままに二次創作を書くという状況とはやや異なった状況が発生しつつあった。
ひとつは、第四節で挙げたように投稿サイトなど交流を促進する場所が発展したことである。このようなウェブサイトがそれまでの作品やジャンルという積み重ね、そして何より、他の著者という存在を意識することになる環境は、もちろん共同体意識といったようなまとまりを志向する意識を生み出したことは想像に難くないが、同時にそのような共同体は、中心的な共同体の中にいる制作者とそこからは外れた制作者といった「中心と外延」の区別や、創作に関する競争意識を持つ制作者をもまた集成していった。
いまひとつは、初期から存在するウェブサイトの消失という事態である。前節に述べたような二次創作の安定化が起こる一方で、この時期には古参のウェブサイトの中で既に閉鎖、消滅するものも多くなっており、それは否応なしに、『エヴァンゲリオン』の二次創作の終焉の気配を感じさせるものであった。
このように初期の二次創作の環境からは変化し始めた状況下で、それまでに区切りをつけるかのように初期の二次創作を総決算する動きや、二次創作からオリジナル小説へとステップアップしていこうとする動きが出始めた。
ウェブサイト『Junk Yard』における企画『Chronicle』及び『Progressive』は、そのような二つの動きをもっとも端的に表す例であるといえるだろう。
『Chronicle』とは、「インターネット・エヴァンゲリオンパロディ小説初期傑作選」63 と銘打たれ、それまでの時期に発表された作品の中で選りすぐったものや、その他のインタビューをまとめたCD-ROM作品である。このような活動からは、当時の「総決算」的雰囲気と二次創作を評価しようとする視線がよく伝わってくる。
他方、『Progressive』は、それ以降も断続的に起こるオリジナル作品へのステップアップへの動きの中で(様々な問題を抱えつつも)もっとも成功したパターンであるといえるだろう。この企画はそもそも古参ウェブサイト『GenesisQ』における『GenesisQ エヴァ小説掲示板』の活動をその前身としている。その詳細な経緯は林隆弘による『「GenesisQ エヴァ小説掲示板」は何を生み出したのか』64 に詳しいが、そもそもは『GenesisQ』における、96年から97年にかけての掲示板での活動を母体としたものであり、そこでの問題意識は、
というものだった。65 これらの目的のどれを見ても、原作ファンによる細々とした同人活動としての二次創作という領域からはかなり外れた問題意識の中での活動である。現に、そこでは手法として「アマチュア作家を対象とした創作合宿において行われた『プロット袋叩き』という企画からその有効性は証明されていた」66 という「袋叩きコンセプト」が応用されており、そこでは「原作への執着」といった個人的な思い入れよりも、より普遍的な万人に受け入れられる作品の質、すなわち「『エヴァ小説』と呼称されるうちの『小説』の部分により傾斜してゆこうとする部分があった」。67
このような問題意識のもと始められた『GenesisQ エヴァ小説掲示板』での議論には、当然それを思考しない層からある程度の反発もあったものと推察できるが、最終的には掲示板の停滞などの状況もあって、オリジナルの創作同人誌『Progressive』68 を中心とする創作集団へと移行した。この同人誌は現在も活動を続けており、SF作家である小川一水が寄稿を行うなど69、明確にプロを意識した活動となっている。70
このように、相次ぐサイトの消失とそれに伴うそれまでの制作者の拡散が起こる中、全体の動きは小さなものになってゆく。この時期に至って、それまでの二次創作を保存しようとする動きが出始めた。例えば2000年に行われ、以後ウェブサイトとして常態化した『綾波展』71 のような二次創作の保存を行おうという活動は、その問題が広く認識されていたことを示すものである。
この時期の大規模なウェブサイトの消失を示す特徴的な事例として、やや遅い時期(2002年)になるが、投稿サイトの大手『Holy Beast』及び『めぞんエヴァ』の相次ぐ閉鎖騒動があった。後者に関しては現在もその様子を記録したウェブサイトが存在するが、前者はまさに跡形もなく消えてしまった。
このように、ゆっくりと二次創作という樹が枯死してゆくような閉塞の中で、これまでに確立されたジャンルの発祥となる作品、影響を及ぼした作品などの記録、そして原作自体の記憶もあいまいになっていった。結果として中心となる部分を失い外縁に成立したジャンルのみが残るという状況下で、他によって立つもののないジャンル自体の固定化と細分化、先鋭化はさらに進んでいった。
この時期新たに現れた作品には「逆行」とキャラクター改変(特定キャラクターを特徴的な敵として描く勧善懲悪もの)を組み合わせた要素である「断罪物」「アンチ物(キャラヘイト)」72 などの元になる作品や(より後期には、その筋立ての明確さからその要素を取り入れられた作品を多く生み、さらに後期のパターン化を象徴的に体現するジャンルとなった)、キャラクター改変の極にある、作品外の人間、ひいては自分の分身をキャラクターに憑依させるという形式の作品73 などがある。また、第五節において触れたカップリング作品についても、それを成立させるためのキャラクターの改変は多数の前例によってより容易になっていき「キャラクター名だけが同じの恋愛小説」という趣の作品も多く出た。
概してそれらの二次創作では、それ以前のジャンル固定化と発祥の不明化と(次節に詳しく記すが)原作の風化という状況を反映するように、既存のものから大きく外れた新たな作品よりはこれまでに出揃ったジャンル内のパターンの多重組み合わせや、意表をついた・極端な設定74 などの先鋭化・複雑化、改変されたキャラクターの固定化、他作品からの設定の持ち込み(第三節で触れた、いわゆる「クロスオーバー」)による作品の再生産が行われていった。
このようないわば「第二世代のジャンル」ともいえる、原作から大きく乖離した作品、定型パターン化した作品は、それらを認めない人々によって「テンプレ(テンプレート)」、「底辺」、「最低物」75 などといった蔑称で称され、さらにそのような状況自体を揶揄するような動き、作品も登場した。76 このような動きからは、新しい動きとそれに抗おうとする動き、自覚的に動きに乗る層と無自覚に動きに寄り添う層、新しい参加者層とそれに反発する層、という複数の集団の駆け引きによって全体の流れが決定していることがよく見て取れる。
このような末期的な流れを経て、二次創作は全体としてはゆっくりと終焉へと向かっていったといえる。しかし、そうとはいえ発売元のGAINAXから(もはや二次創作で生じたジャンルを流用したとも取れるような)商品が継続的に投入され続ける中、ある程度新たな制作者と読者の流入の流入は続いていた。
二次創作はその内部では、前節の二次創作のジャンル先鋭化の流れからくる過去作品において確立されたジャンル・パターンの引用及び新解釈とひねりによる作品作り77 、そしてそのさらなるジャンル化などが進行する状況にあったが、そのような新規参入者の流入を背景として、さらに特徴的な状況が大きく顕在化した。それは、原作の存在を意識しない読者・作者、平たく言えば原作を知らないままで受容され、また制作される二次創作という状況である。
本来、たとえジャンルのパターンに依拠する部分(裏返せば原作と乖離する部分)が非常に大きくなっている作品であっても、それらを読む読者もまた作者も原作の存在を意識し、それが原作ありきの、まさに「二次」創作であるという了解のもと創作を行っているはずであった。しかし大まかに言って1999年頃以降、ジャンルの発祥があいまいになり、また原作が既に過去のものとなってしまった時期以降に参入した新たな読者と作者は、それら既存の二次創作に新たな意味を与えることになった。すなわち、読者が原作の存在を意識して作られている二次創作を、原作の存在を意識せずに読み、支持するという状況である。このような「原作を知らない読者」の問題は早くは1999年の時点で既に指摘されていたが、ジャンルの沈静化と以前の読者の減少、新規参入者のさらなる増大に伴って、その動きは大きく前面に押し出されることになった。
この局面では、それら新たな読者が新たに作者となり、原作ではなく既に確立されたジャンルの二次創作を念頭において創作を行うことで、原作から離れた自由な(原作を尊重する価値観から言えば好き勝手な)二次創作が増加し、それがさらに原作から自由な読み手に支持されるという状況が発生していく。
しかしそのような流れの中でも、例えば先の「最低物」などの言葉が延々と使われ続け、また今回インタビューなどで参考データとして用いた、大手更新情報ウェブサイト『エヴァンゲリオンファンクション・ファイブ』において主催された2005年の二次創作人気投票においても、原作にこだわり、乖離がそれほど大きくない二次創作にも支持が集まるなど(また「原作を知らない読者」に支持されている作品であっても、それを書いているのは原作に対してある程度思い入れがある作者であるということがある)底流として原作を重視する二次創作の流れも消えてはいなかった。
また、そのような読者と同時に制作者側でもこのような極端な原作からの乖離、拡散状況をよしとしない流れが存在した。それは前節の終わりに述べたような反発層にも連なるが、例えば表面上原作と大きな乖離を見せていても、それらと原作の整合性をつけるように試みる作品や、そのような設定自体にメタ的な仕掛け78 を施す作品などである。
このような層は、創作へ意識が向いた「遅れてきたステップアップ層」とでも呼べる存在や、二次創作を読んだことなどをきっかけに原作の記憶が甦った「語り残したことがあるファン層」であるが、全体の流れの中では小さな存在であったり、ネタとしての原作からの乖離が順接として受け取られてたりという状況にある。それゆえ、全体としては原作からの乖離と二次創作内部でのジャンルの固定化が極端に進み、大げさに言えば「原作は記憶から失われた」とでも言えるような状態になっている。
かくして『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作にはいま、依拠すべき原作が失われ、ただ辛うじてその残滓を止めるように原作から派生して成立したジャンルに依拠した二次創作が制作されるという時代が到来している。
前章では主に作品の流れから、やや巨視的に二次創作の推移の分析を試みたが、本章ではインタビュー調査等からより微視的にポイントとなる点、制作者像を含めた二次創作の輪郭に迫りたい。
今回、現在活動している制作者のうち何人かに、電子メール及びインスタントメッセンジャー(インターネットを経由してリアルタイムに文章をやり取りできるソフトウェア)のひとつ「MSN Messenger」を利用したインタビューを試みた。メッセンジャーを使用した場合には半構造的インタビューによって調査を行い、またメールを使用した場合には、半構造的インタビュー時に使用した主なトピックスについて解答を求めるという形を取った。使用したトピックスについては以下の通り。
対象者については、ウェブサイトを制作した際にコンタクトを取ることができた製作者の他、ファン投票における上位入賞者を中心に、ジャンルが偏らないよう注意しながらインタビューを試みた。その結果、2005年1月〜2006年1月の間に、同項目について計25名の制作者にインタビューすることができた。以下にその基本的な属性を示す。年齢に関しては調査日時との関係上多少のずれがある。(調査当時の年齢を基準としている)
次節からは具体的なインタビュー内容を引用しながらポイントとなる点に迫っていく。なお次節以降はインタビューの引用を行うが、その場合、顔文字なども含め基本的には回答者の返答をそのまま引用している。ただし、メッセンジャーでのインタビューにおいて、明らかな打ち損じや発言の錯綜、分割などが起こった場合などは、特に断らずにひとつの発言として読める形に修正している(その場合、適宜発言の終わりに句点を補っている)その他、回答者の特定が容易である部分(回答者の氏名およびハンドルネーム、作品名など)については(*)に置き換えて該当部分を伏せた。また、メッセンジャーによるインタビューの場合は著者の質問も含めて引用し、著者(質問者)を「ER」、回答者を「EE」として区別している。
二次創作の制作者はいかなる動機で作品の製作を行うのか。前章でも既にいくつかの例が作品から間接的に示されたが、この節ではより直接的にその意識に迫ることにする。
まず、二次創作の動機として最も想像しやすいのは、原作を受けて直接的に行われた二次創作である。例えば斉藤が示したような原作の設定そのままに別バージョンのシナリオを書く制作者は原作と制作者が強く結びついた創作姿勢を持っているが、その姿勢はこのような動機から導かれるだろう。79
また、斉藤は考慮に入れなかったが、原作にこだわるがゆえに、それを自らの好むものに書き換えてしまうというタイプの二次創作もまた、同様に原作と制作者が結びついた創作姿勢を持っている。これには例えば、回答者W(30代、男性)による以下のような回答が参考になろう。
「エヴァが好きだったからですね。あの終わり方に納得いかなかったというのもあったと思いますが、最後の学園物の雰囲気がよかったのではじめてみたくなりました。」
回答者Wは1996年の段階で既に二次創作を始めていた古参の制作者であり、この回答はそのような初期の制作者の動機をよく示している。
前節のような自分の心理的な問題と絡んだ動機の対極にあるといえるのが、創作を目的とした上でその代用として、あるいは「受けやすいジャンル」として極めて投機的に行われる「売れ筋」としての二次創作の制作である。このような創作姿勢は、全体としてはやや後期に参加した制作者に目立つ。たとえば、2002年頃に創作活動を始めた回答者G(30代、男性)の場合、二次創作を書いた動機は以下のようなものだった。
EE:書き初めた「動機」を教えていただけますか。ええと、原作から入った、とか、二次創作から入った、とか、とりあえず二次を書きたくて、とかそういうことです。
EE:正直に言うと、楽そうだからってのが一番にありました。
ER:どのような部分がですか?
EE:質の悪い連中が目立ち始めた時期でもあるからです。最低路線もこの頃には確立されてましたし。で、多少なりとも事前に読み込めてましたから。いろいろな話を。ある程度マーケティングして、この路線なら受けるって感じで書き始めました。まあ、正直薄汚い書き始めでしたね
また回答者Gはこの他にもオリジナルの小説作品とのレスポンスの違いなどの理由を二次創作の動機として挙げており、創作がしたい制作者が原作を材料として創作活動を行うという状況がよく現れている。80 81
このような創作においても、前節に示したように、原作に沿う動きと沿わない動きが共に存在する。例えば同じく回答者Gが
ER:FFを書くときに、原作との整合性を重視する方ですか?これは、キャラでもそうなんですけれど。
EE:それはもう、見てくれとしか言いようがない(苦笑) 整合してます?俺の。逆に聞きたいw 実際、こうは言わないだろって台詞をバンバン吐かせてますからね、俺。
ER:そこはやっぱり、原作にあるキャラから外れていく部分もあると。
EE:外して書いてる部分も多いし、外れちゃったって部分もある。結局、見栄え重視だと思います。
と回答する一方で、動機については「原作を知って何年も経ってから二次をしりましたね。元々創作に興味があったのもあって書き始めましたね。」82 と同様に創作の興味が大きかった旨を回答した回答者H(30代、女性)のように、
ER:原作と完全に異なった世界を書く、というのもあると思うんですが、そういうのはあまりなさらない?
EE:かなり原作からずれてはいても似通った世界は書いてますね。今の所、(極端な例で言うと、宇宙空間とか、剣と魔法の世界とかそういった)大幅に外れた世界は書いてませんね。
ER:そういう部分では整合性を取っているということですね。
EE:ですね。キャラクターの容姿や名前、性格のみを間借りして別世界...という部分までは至ってませんね。
と、ある程度原作に準拠していると述べる制作者も存在するためである。この回答を見てもわかる通り、制作者の志向が創作に向いていて原作からの逸脱を行う場合でも、その基準になる大枠は暗黙のうちに成立していることがわかる。
前節では二次創作の動機とその表現について、どちらかといえばシンプルな例を挙げた。しかし、以上のような動きには収まらない複雑で中間的な動きもまた存在する。例えば二次創作を経由して原作への思い入れに気づいた層や、原作を見返したのちに二次創作の存在を知って書き始めた層などである。
前章でも挙げたように、原作の影響を直接に受けて成立する二次創作は時代を下るに連れて少なくなっていく。前章ではそれを「失われた原作」と述べたが、注意しなければならないのは、それはあくまでも二次創作という範囲での動きである点である。例えば民話のように初めから原作がはっきりとは存在しない類の物語と違い、二次創作ではビデオソフト等の形でその原作自体は残り続けることになる。それゆえに、二次創作に影響を受けつつも、完全に創作には傾かず、原作へのこだわりが大きくなる場合がある。
これらは総じて全体としては二次創作が終息へと向かった時期に現れた「遅れてきた」制作者であるが、本節ではそのような二次創作とのかかわりによって生まれた制作者について例を挙げて見てゆくことにする。
例えば、回答者A(30代、男性)は自らが二次創作を書くことになった動機を以下のように述べている。
EE:ええ、LAS、LRS、LARS、ヘイト、スパシンその他もろもろ。くまなく読みまくりました
ER:その結果、自分も二次をやってみよう、と?
EE:で、読み漁ってるとどうも何か気持ち悪いんですね
ER:ふむふむ…気持ち悪い?
EE:みんな各自の趣味で作品を消化して再構成してるわけですよね
ER:はい。
EE:それを読むというのは、楽しい事なんだけど、違うだろ、と 俺だってあのラストに納得いかなかった一人だろ、と。じゃあ、何かやってみようじゃないかと思い立ったわけです。その時は思っただけでしたが(笑)
このような例は、二次創作が発端になっていながら、その動機としてはかなり原作への屈託を引きずっている。83
また逆に、原作を発端にしつつ、二次創作という分野を新たに「発見」した層も存在する。例えば、回答者E(20代、男性)は、二次創作をきっかけとしつつ、直接の動機としてはあくまでも原作である、という意識があることを述べている。
ER:では、二次創作を書き初めた直接の動機は、原作への思い入れ、というよりは、読んだ二次創作、ということになりますか?
EE:それもなくはないですが、直接にはDVDです。丁度二次創作を見始める前にDVDを買いまして。それで、見た当時(特に劇場版)の思いがまた湧きあがってきましてネットで色々エヴァ関連のサイトを見てまわってたんです。そこで二次創作小説という分野を知って、あれこれ読み始めたというのが始まりで
以上のような層がどのような表現を行うのかはそれぞれであるが、総じてある程度原作に依拠した(大枠を外れない)創作を行っている感触がある。84
さて、前二節では仮説に沿って、二次創作において制作者の意識が創作に向いているか、それとも原作へのこだわりにあるか、という点、そしてそのような志向がどのような形で表現されるのかという点を中心にして議論を進めてきた。
だが、ここでひとつ語り残している存在がある。それは二次創作のジャンルを受けて制作された二次創作や三次創作、さらには原作を経ずに成立した二次創作といった存在である。前章において歴史を見ていく中でも判明したが、そこで出現したジャンル及びパターンに準じた作品の中には確かに、自分で創作をするか原作に依拠するか、という基準ではなく、むしろ「二次創作のパターンに依拠する」という基準で行われているものが存在していた。よって以下では、そのような二次創作とそれにつながる動きに焦点を当ててゆく。
このような創作に至る第一段階の制作者としては、二次創作を発端として二次創作を行うことにした制作者が挙げられる。彼らは肯定にしろ、否定にしろ、その視線を原作よりはむしろ二次創作に向けていると言う点では共通している。
例えば回答者O(30代、男性)による、二次創作を始めた動機についての以下のような回答は、このような主に二次創作へ向いた視線をよく表している。85
・多くの二次小説を読むうちに触発された
・多くの二次小説が、微妙に自分の読みたい展開とずれていて フラストレーションが溜まり、「だったら自分で、自分が一番読みたい小説を書こう」という気になったから
このような制作者は、一部はこのような二次創作において発生したジャンルとそこで固定化した設定変更に反発し、三節において述べたような層と同様原作の設定に逆に近づけた創作を行ったが86、多くはその次段階である、既存のジャンルとパターンに依拠した二次創作への布石として機能した。
さて、前章でも示した通り二次創作の最終段階においては「二次創作のための二次創作」とも言うべき作品及び製作者が発生する。どちらかと言えば原作にはそれほど関心がなく、創作行為が目的ではあるが、二次創作のジャンルへのこだわりがあるために二次創作を行っているという場合である。このような段階における制作者の二次創作を書き始めた動機については、以下に示す二者の回答を見ればよく理解できると思われる。
「自分が読んでみたい逆行モノを書いてみたかったから。」
回答者R(10代、男性)
「最初に書き始めた二次創作はスパロボ物87でしてとあるサイトのスパロボ物を読んで自分もこんなの書きたいなぁ・・・と思ったからですね」
回答者Q(20代、男性)
両者の回答は共に、前章の第八節で述べたような、二次創作の最終段階に現れる、二次創作のジャンルを前提としてそのジャンルに沿った創作を行う制作者の動機をよく表している。88
さて、以上『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作が現在までに辿った推移、及びその制作者像をそれぞれ追いかけたが、本章ではそれらの結果を元に、初めに示した仮説を検証していきたい。
第三章においては、『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作を対象としてその推移を記述した。まず、以下では第三章における位置を具体的に示して、その推移を順に追いかけてみよう。
まず第二節に示したように、二次創作はその初期段階においては、展開予想や後日談形式など、原作との強い関わりの中で成立していた。しかし、第三節に示したように、その次には背景設定やキャラクターなどの読み替えが原作の一定の影響下で生じてくる。このような流れは、第四節にあるように、投稿サイトのような作品と作者同士のやり取りを促進・可視化する場、二次創作が相互に参照し合えるようなコミュニティの影響も関係しつつ徐々に顕著になり、いずれ様々なジャンルを成すようになる。ここで成立したジャンルは場合によっては原作の設定やキャラクター、プロットなどと齟齬を起こすものも含まれており、それでいて第五節に示したようにその後に発生する二次創作に影響を及ぼす。
この時点で既に、かなり原作からは遠のいた感の強い二次創作へとその傾向が移行しているが、以降もその流れは既存のウェブサイトの消失の影響などを受けつつ、作者の意識、作品に表れる傾向の両面において進む。意識の面では、インタビューの結果においても触れたが、第六節にあるように意識が原作から離れ、より創作に志向が向いた作者が登場してくる。このような作者においては、表向き原作との齟齬を起こさない場合でも原作への志向はあまり強くなく、むしろ物語としての完成度を求めている部分で特徴がある。このような層は以降もある程度含まれ続け、定期的に独立した創作活動へとステップアップする動きを生む。また作品の面では第七節に示したように、ジャンル内のパターン組み合わせや先鋭化など、さらに顕著にジャンルに影響された二次創作の動きが目立って行く。そして第八節に示したように、その最終段階にあっては、原作と二次創作とを等価のものとして扱うだけでなく、そのような傾向をさらに推し進めた、原作と二次創作の関係が逆転した、二次創作において出現したジャンルにほとんどを依拠する作品が登場する。またこの頃までには、原作を介さないで了解される二次創作といった状況も起こっていた(もっとも、そのような段階まで二次創作の界隈が保たれることは特異だと言えようが)。
以上の全体の流れを見ると、第二章で予想したような流れは大まかに言えば確かに存在しているように見える。実際に、二次創作は全体に原作を志向し、またそれに準拠したものから(様々な中間形態を経ながら)、より原作を離れ、それに準拠しないものへと移っていったと見ることができる。
だがその一方で、このような見方は今回明らかになった、二次創作内部でのジャンルに依拠する二次創作については、やや当初に考えていた分析軸からは外れる面があった。確かに、より後半になるほど、二次創作は傾向として原作からは離れていく。けれども今回明らかになったように、それは必ずしも創作へと志向が向くことのみを意味しない。むしろその最終段階では、原作には依拠しないが原作以外のものに依拠する創作という、原作への志向と創作への志向という両極では捉えがたい創作形態が力を持っている。これは原作へその意志が向かわないという点では創作志向とも取れるが、けれども既にある物語や設定にその多くを依拠するという点ではより初期の二次創作と同じような部分を感じさせる。このような二次創作の形態、そしてそれを成り立たせているジャンルの発生は非常に特徴的な事象であるが、原作との関係を基点に考えると理解しにくい。
このような状態を生み出す二次創作のダイナミクスのより抽象化された原理的説明については、当初にも述べたように先行研究を含めた大規模で詳細な検討が必要となるだろう。それゆえ、次節での二次創作の制作者層分析とおたく層との関連についての考察を経た次章に譲ることにする。よってここでは議論をいったん打ち切るが、以降はより抽象的な説明となるため、以下ではより大まかな状況理解の助けとして、やや比喩的に、樹状の図を使った説明を試みてみたい。二次創作からその他の動きへも繋がる実際の、一見するとやや複雑な状況を比較的理解しやすくするためには、二次創作を成長し衰退する有機的なものとして捉える理解が有効と思われるからである。
大まかに言って、二次創作の推移は樹状のモデルを用い、下図のようにその推移、成長と衰退を理解できる。
まず、原作が中心として存在する(図3-1)(なお、ここでは特に原作とその背景設定などとを特に区別せず、やや大雑把に把握することにする)。その後、その周辺に中心部に接続された部分が発達する(図3-2・原作志向−準拠の象限にある二次創作が出だす段階)。これらの領域はちょうど、否定的(原作準拠)にしろ肯定的(原作非準拠)にしろ、原作とのつながりが深い二次創作を示すが、一部には独立性を強め、やや原作から遠く離れた領域にまで枝を伸ばす部分も存在する。このように次の段階へと進むための準備が整った後、周辺部分は枝部を含めて成長を続け、より強固な組織を成し、また次第にその中心たる部分から距離を取っていく(図3-3・創作志向−準拠の象限や、原作志向−非準拠の象限などバリエーションに富む段階)。 そしてある程度の成長を遂げると、周辺部は確立してもはや中心部からほとんど自立して成立することができ(図3-4・ジャンルの固定化)、またこの段階においては樹を離れて他の界隈へと種子を放つ部位も出現するようになる(図3-4・実り始める二次創作の「次」・オリジナル小説への流れ、他の二次創作への移動など)。このような段階を経て周辺部は自立に至るが、一方で年代を経過した中心部には枯死する部位が出始める(図3-5・原作、及び初期の二次創作が忘れられ、影響力を失う段階・二次創作の空洞化)。やがてそれらが完全に枯死した後は、周辺部に依存して発生する新たな部位がその成長の中心を担うようになる(図3-6、原作から離れ、各ジャンルにおける基本的な約束事に拠って成立する二次創作が出る段階)。
以上のような図とそれによる理解はあくまでも比喩的なものだが、成長と衰退を含んだ一連のサイクルとして捉えるにはわかりやすい。
しかし、このようなサイクルの中で、実際に二次創作を行い、また受容している人びとはどのように位置づけられるのだろうか。次節では結果を踏まえ、一度出発点として先行研究での作り手像(≒おたく像)へ立ち戻りつつ、その点を考察してみよう。
初めに設定した通り、本研究ではここまで、それまでの二次創作に関わる研究(特に理論的研究)の多くが依拠してきた「おたく」という用語を意図的に外して論を進めてきた。その理由は初めに述べた通りだが、ここでは既に明らかになったサイクルと制作者像などから、それらの議論において「おたく」の範疇に導入されていた集団について新たに判明したことを指摘しつつ、二次創作の制作者層の考察を進めてゆく。
既にこれまでの議論の中で、特に斉藤が問題にしたような特徴を持つ集団(斉藤の見解からいけば、精神分析的手法を適用できるのはむしろ個別のおたくである、ということになろうが、彼の特徴付けるおたくと東が特徴付けたようなそれとは個人としての在り方で見ても大きく異なっているように思われる)と、東が問題としたような特徴を持つ集団は、その集団ごとの数の多寡ははっきりと述べられないものの89 それぞれサイクルの出発点近くと終着点近くに、それぞれ位置づけられている。それゆえ、そのような性質を持った人々が存在したか、どちらが正しいおたく像か、というような第二章での素朴な問いはここではもはや問題にならない。
両者を「おたく」と呼ぶかどうか、集団としての「おたく」が消滅したか否かという問題は本論における中心的な問題ではないのでここでは踏み込まないが90、しかし少なくとも、例えば斉藤や東がそれぞれに述べるようなおたく像、そのイメージで特徴付けられる層が並存していたのは確かである。既に『新世紀エヴァンゲリオン』においてはそのサイクルは終焉を迎えつつあるが、今もまた新たなサイクルはそこかしこで始まっており、それらの層はジャンルに残り、あるいはジャンルを移りつつ、それぞれに創作を続けている。
以下では、この点を踏まえつつ、現状のおたく論において行われている二次創作の制作姿勢によるおたく像の変化に関する説明、具体的には東によるおたくの世代論について、二次創作の側から必要な部分について反証を行っていきながら、二次創作の制作者層を位置づけて行くことにしよう。
前述したように、東はおたくを社会のポストモダン化の延長として捉え、その世代の変化によって事象を捉える世代論を述べている。これはおたく文化(そしてその傍流として位置づけられることが多い二次創作文化)を複数の傾向の係わり合いとして位置づける見方として、ひとつの視点を提供する。すなわち、それらの文化の担い手は二次創作の外にある外部条件によって起こる世代交代によって移り変わったのである、という視点である。本項ではその視点について今回の結果からその妥当性を検証する。
東は『動物化するポストモダン』において、そのような世代による理解の根拠として、まさに『新世紀エヴァンゲリオン』を例に取って次のように述べた。
『エヴァンゲリオン』のファンたち、とりわけ若い世代(第三世代)は、ブームの絶頂期でさえ、エヴァンゲリオン世界の全体にはあまり関心を向けなかったように思われる。むしろ彼らは最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定にばかり関心を集中させていた91
本研究の立場からは議論をおたく全体へのそれへと一足飛びに飛躍させて語ることは避けねばならないが、この点については本研究からある程度反証が可能である。その論拠としては、先に見た『新世紀エヴァンゲリオン』のファンによる二次創作の状況から、その主流のひとつとして「エヴァンゲリオン世界の全体」に関心を向けその補填を目指した後日談形式での二次創作が存在することを示せば充分であろう。92(とはいえ、キャラクターにより焦点が当たっていた、と言う点ではある程度当てはまる部分も事実である。しかしこれは劇中での社会状況についての設定の少なさから来るものであり、むしろ本作においては「世界の全体」が小さかった、と見るべきだろう。それ自体を時代精神の発露として批評的に捉えるのは意味があろうが、少なくとも上記に示したとおり、それを受け手全体の記述へと敷衍するのは無理がある)
その意味で、東の意見はそれほど当てはまりがよいとはいえない部分を抱えている。しかし、そこで起こるとされている具体的な変化を作品ジャンル内部での変化に微視的に当てはめてみると、東の述べるようなオタク系文化の変化過程にある程度沿っているようにも思える。時を経るにつれて原作からの乖離が目立ち始め、ついには遠く原作から離れた二次創作や三次創作的な作品が生み出されていったという経緯は先の歴史からも見えてくることである。そこで東の議論に沿って、今回明らかになったようなサイクルを歴史的、社会的な変化に端を発し大きな変化が反映されたものであると考えれば(作品の発表された時期を鑑みても)このサイクルには再現性がほとんどない可能性がある。
けれども、詳細に検討すれば、二次創作の制作者としての複数集団、そしておたく的な特徴として挙げられる複数集団の説明として、東が述べるような社会変化を反映するおたくの世代変化を考えることはやはり難しい。現に他のより新しいジャンルの二次創作を見ても今回明らかにしたような変化と同様の変化が起きつつあることは理解できるし、それは今回明らかにしたように、予想される変化の一側面、例えばその最終段階や初期段階のみではなく、その全体の流れを再現している。
また実際に今回のインタビューに応じてくれた制作者のデータを見ても、社会の思想基盤の変化を背景にした演繹的な世代論の弱さは明らかになる。例えばかなり原作に準拠した物語を書く作者の中にも20代前半の「第三世代」以降の世代の作者は存在するし、逆に原作と直接は接続されない物語を書いている作者の中にも、20代後半から40代の書き手までが存在する(アニメーションの対象年齢を考えればその幅の広さは特異ではあるが)。さらに、それら制作者の性質に関しても、東の特徴付ける「第二世代」的な特徴を持つ作者と「第三世代」的な特徴を持つ作者が混在している。
このように、二次創作の制作者については、社会的な影響、共通体験を反映した年齢によって切られた世代の影響を広範に適用いるのはやや無理がある。少なくとも二次創作(の一部)においては、その内部に様々な特徴を持つ制作者が混在している。しかも、その状況の変化の仕方が東の議論において想定される変化の一部ではなく一連の流れを再現しており、その変化の基点になっているのは既に第三章に示されたように、制作者の生年というより、むしろ制作者としての生年、すなわち二次創作を開始した時期によるということから、むしろ二次創作内部の状況がその原因の多くを負っていると考えられる。
第五章を通して、二次創作とその参加者が辿ると予想されるサイクルを第三章における実際の二次創作の作品の推移と第四章における制作者へのインタビューからそれぞれ検証してきた。この検証を通し、二次創作において発生から終了へと向かう一連のサイクル、それを担う複数の特徴的な制作者層がおおかた仮説に示したような形で存在することは、ほぼ示されたと思われる。
しかし、このようなサイクルを持つ二次創作という文化が果たしてどのような内部構造を持ち、またいかなる条件に影響されているのかということについては、いまだ考察が充分でない。
そこで本章以降では、以上に検証された複数の制作者・受容者層が作り出す一連の推移の意味やその周辺状況を既存の理論、特に東浩紀による「データベース消費論」とその前提となっている「物語消費論」の検証を通じて考察したい。
前章において、二次創作についてその一定の推移があること(常に一様ではないこと)と、制作者層において複数の層が存在し、二次創作が出始めてからの経過に応じてそれぞれが盛況と衰退の段階を踏むことでその推移の駆動力になっていることを示した。
以上のような検証は二次創作の構造についての再検討を迫る。というのは、以上に反証した世代的変化(その原因となる日本社会のポストモダン化)によって制作者を捉える考え方や二次創作についてその内部の推移を繰り込まない原理の記述は、2000年代以降、二次創作の構造についての有力な理論となっている「データベース消費」の基調となっているからである。
前節で述べた通り、東は世代的な変化、社会的な変化の反映として二次創作を位置付け、その上で理論的な説明を行った。であれば、二次創作において単純な年齢によって切られた世代、その前提となる社会変化の重大な影響が認めにくく、またその内部での変化が認められる時点で、そのような認識の上に立つ理論には再検討が加えられるべきであると考えられる。よって、本章においては前章の内容や場合によっては今回の研究結果に立ち戻りつつ、前述した東によるデータベース消費論の検討を行う。
「データベース消費」および、その前段階としてある「物語消費」という概念には第二章でも触れたが、ここで再度詳述しておく。
そもそも「物語消費」とは大塚英志による『物語消費論』93で提出された概念である。大塚は同書において、商品をその背後に設定されている「大きな物語」の一部分として機能させ、その「大きな物語」の魅力によって個々の商品を消費させるシステムについて触れ、そのような事態を「物語消費」94と名づけた。
東の述べる「データベース消費」の概念は、このような事態を前提としつつ、ポストモダニティの到来という観点から、背後に存在するものを個々の物語を部分として持つ近代的な「大きな物語」から、「データベース」へと置き替えたものである、と理解できる。
しかし、実際に大塚の論述に当たって検証すれば、大塚における「大きな物語」に関してそのような厳密な理解が当てはまるかはやや疑問が残る。大塚自身、その概念の適用範囲をおたくに限定してはいないこと(何しろ、そこで例に挙がっているのは当時小学生の間で流行した「ビックリマンチョコレート」である)や、そこで述べられている「大きな物語」が絶対的なものでなく、むしろ類型的で恒久普遍的ではない内容を持つと紹介される「世界(歌舞伎用語)」と同義として述べられている95ことからも、東による「大きな物語」議論は学問的により精緻な記述を目指したことで、本来の大塚の見解よりはやや狭義なものに限定されていると考えられる。
そしてここまでの検証を踏まえれば、実際のところ、東の示した各々の読者がデータベースを読み込んでいくデータベース消費の概念より「大きな物語」や、さらにはそれと同義であるとされた類型的な「世界」に基づいて行われる創作という見方の方が二次創作の最終的な実態にはむしろ近いように見える場合もある。96
この意味を理解するためには、二次創作における省略の問題を考えてみるとわかりやすい。二次創作が作られるとき、それ単体では、原作において読み込まれている情報の全てを直接に提示・参照することは基本的にはない。それはほとんどの二次創作の原作と比しての情報量の少なさからもわかる通りである。当然と言えば当然であるが、ゲームや漫画、アニメーションといった作品はおおかたの場合、かなりの期間と精力をかけて制作されるものであり、二次創作のひとつひとつの作品はそれに比肩する情報量を収めることはできない。全ての情報を読み込もうとするならそれは原作と同様のアニメ作品になるくらいしか方法がないので、必然的に原作よりも(時には作品単体では意味を理解できなくなるほどに)その情報量は小さくなる。しかし、それにも拘わらず、それぞれの作品は物語として成立している。
このような現象には、作中における種々の省略が大きな役割を果たしている。二次創作では時に単体では意味を了解できなくなるほど過度の省略が発生する。キャラクターの名称を述べればその髪の色、服装、などを省略できる、というような描写の省略は常に発生するし(一度描写された上で省略されるのではなく、作品全体を通してほとんど描写されない場合がある)、例えばSSの形式で語られる非常に短い作品においては、その物語は原作の全てをその後日談、そして前日談として省略することで成立しているとも言える。また、それどころかほとんど会話文のみの作品の断片であっても(「キャラコメ」と呼ばれる形式)場合によっては成立してしまう。このような場合、それら作品は原作にある多くの部分、展開を参照し、そのまま引き継ぐことによって成立している。つまり、二次創作においては、原作の参照元部分を示すことでその内容を省略できる。
このような所作は一見するとデータベース消費論における「読み込み」が明示的に行われているよい例に見える。しかしよく考えてみると、キャラクターの外見的特徴のようなレベルのものはともかく(どこまでを要素に切り分けるかにもよるが、こちらはデータベース消費論による説明でも上手く説明が可能であるように思われる)、ひとつのシーンや作品の一部といったレベルでの「読み込み」は二次創作についてデータベース消費論において主張されていたことからはややずれている(あるいは、記述としてやや曖昧過ぎる)。そこで参照されているのは何か、と考えれば、実際にキャラクターとプロット、そして世界観を組み合わせて実現し、個別の作品(東の用語で言えば「表層の」作品)として差し出されている原作そのものである。
ここで予想される反応として、そのような参照はプロットという要素とキャラクターという要素と背景にある設定・世界観という要素をそれぞれ別個にデータベースから直接参照しているのだ、という反論を想定できる。確かにデータベース消費論においては、表層たる原作に現れている要素は実はその深層にあるデータベース上に存在しているそれを読み込んでいる(表層の物語は読み込まれた結果である)と考えるから、この議論は成り立ちそうに思える。けれどももう少し厳密に考えれば、ここで引用されているものは諸要素の「読み込まれ方」までをその範囲に含んでいる、という部分で、データベースのみによるものではありえない。データベース消費論においてはその読み込み方はユーザー、つまり表層の物語の作り手の側に所属しており、であるからこそ二次創作と原作はどちらもそれぞれ作品の深層たるデータベースをそれぞれ自由に「読み込んでいる」点において等価であるとみなされるからである。これは元もとの議論の時点でやや混乱が見られる部分であるが、作り手が自由に物語を読み込み、その形態が原作を含むと想定されるような「大きな物語」との齟齬によっては判断されない(例えば『ガンダム』がそうであるように、物語の背後にある偽史との齟齬があることで排除されたりはしない)のが、データベース消費論と物語消費論において想定されたモデルを分ける根拠であったのだから(物語消費論においては、原作をその一部として含む「大きな物語」を想定したためこの種の問題は生じない)、この点はモデルの誤差としては看過できない部分である。
よってこの問題を回避するためには、原作における読み込まれ方、即ち「物語」をどこかに位置付け、二次創作がそれをさらに読み込みうると想定する必要がある。その場合、少なくとも以下に示すいずれかの修正がデータベース消費論に要求される。すなわち、原作における読み込み方のみは特権的にデータベースの内部に含まれているとするか、あるいは二次創作はそれが作られるたびに新たにデータベースにその読み込まれ方をある種のログとして残してデータベースの情報量を増加させるとするか、という修正である。つまり、原作は二次創作と構造的に同じではないか、もしくはデータベースは作られる創作物(シミュラークル)によるフィードバックを受けるか、あるいはその両方である。そして前者であればシミュラークルの水準での原作と二次創作の等価性が、後者では二次創作におけるデータベースの先行性がそれぞれ破綻することになる。もっとも東は萌え要素の議論においては「レイの出現は、多くの作家に影響を与えたというより、むしろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった」としてデータベースの変化を語っており、その範囲まで辿れば破綻してはいない。しかしそれとて、そのようなデータベースがどのように更新されるのかについては言明されておらず(それが明らかでないなら、その更新を行うことのできる者こそが特権的な作者として君臨し続けることができるだろう。しかしこのような特権的な作者の存在は東自身が否定していたことである)、後の二次創作の議論におけるデータベース先行的な議論、シミュラークルを制御するものとしてのデータベースを考える議論とはやや噛み合っていない。
あるいはそれ以外の修正として、初めから全ての組み合わせがデータベース内部に含まれている、という考え方もありうるように見える。確かにそのように考えれば、データベースの先行性を確保しつつ、原作と二次創作との等価性も担保できる。しかし、そのような回避方法ではやはり「省略」の問題を上手く説明できない。先ほど述べた通り、このようなレベルの省略は「読み込み」という言葉において想定された設定の組み換えのような手法、原作の物語とは無関係な消費形態とは明確にずれている。そこではデータベース中にある要素がどのように読み込まれるかは明示されないまま(つまりは作者による具体的な「読み込み」を欠いたまま)、それでも読み手は原作を自ら参照しながらその欠如を補完する。そこに発生しているのはデータベースの直接参照の省略、あるいは原作を介した間接的な参照とでも呼ぶべき現象であり、そこで最終的に読み込まれているのは深層であるにしろないにしろ、当座参照されているのは見える形になった作品そのもの(シミュラークル)の一部に他ならず、データベース消費による説明はその適用限界にあると考えられる。(また、データベース上に表層に現れる諸要素、そしてその組み合わせ方=読み込まれ方の情報の全てが存在しているとすれば、東自身HTMLの考え方について「超平面的」と表現しているように、そこにある情報は表層の物語と同じもの、表層にある物語そのものに他ならない。それに、そもそも考えうる全ての要素、全ての読み込まれ方をそれに含むデータベースは突き詰めれば原理上全てのあり得る物語をその中に含むことになってしまう。これは最終的には間違いではないかもしれないが、少なくとも限定された作品についての説明としてはほとんど意味がない)
ところで、このように考えてみるとそこで参照されているものは「大きな物語」と呼ばれていたそれに近いのではないか、という印象を受ける。確かにその通りで、このような省略を含む二次創作は物語の背景に(その二次創作と原作とを整合性をもって含む)「大きな物語」を想定し、その一部を切り出している、または読み出していると考える物語消費論の見方に戻ったほうがより当てはまりが良い。そのような考え方に沿うなら、二次創作は作品から独立してではなく、むしろそれと絡み合った一部として捉えられるため、上記のような矛盾は起こらない。
前項に示したように、二次創作における省略そして参照の関係を見るとむしろ「大きな物語」を想定する物語消費の方がより上手く説明ができる場合があった。しかし、とはいえそれ以前に示したように、二次創作のサイクルにおいては、その中盤においては原作と齟齬と起こす設定・プロットの導入による作品作り(例えば「再構成」系の作品などは、物語の初めの時点から全く別の物語を組み上げることで、そのような設定の組み合わせ変更による創作をある意味もっとも象徴的に行っているジャンルである、といえる)が行われており、このような作品群は東が例示した「第三世代オタク」の創作の形にむしろ近い場合が多い。
またさらに重要なのは、第三章の作品の推移、または第四章の作者層の記述より分かるとおり、二次創作の辿るサイクルの終盤においては、原作ではなくジャンル内部のある種の「お約束」や「パターン」を参照することで同様の効果を生む二次創作が出てくることである。次段において細かく検証するがそのようなパターンは例えば「独自設定」と呼ばれる場合もあるように、原作の背景設定と同様に作品を支配しつつも、その実原作の設定とは異質である。またそこで登場する二次創作は、当然のごとく原作との齟齬を抱えている。そこまでを視野に入れると、ひとつにまとまった「大きな物語」を考えるモデルも精緻に当てはめるにはやはり不十分であることがわかる(そこまでの使われ方を想定していたかはやや疑問ではあるが)し、それは萌え要素を考えるデータベース消費のあり方に適合している。
第三章において示した推移より、具体的にそれら類型的ジャンルに拠る二次創作を検証してみよう。『新世紀エヴァンゲリオン』の二次創作においては、最終的に類型的なジャンルに依拠する創作が前面化し、読み込まれるべき原作あるいはその背景の細部は、その多くが忘れられてしまう、という事態が起こっていた。この段階における二次創作が依拠している設定には既知のように、原作をその一部として接続する大きな物語の一部としても、相互に矛盾した作品を読み出せる諸設定を含むデータベースの要素としても直接には含まれない「作者が物語世界の中に侵入する(やおいにおけるドリー夢小説にも同様の例は見られる)」や「主人公がタイムスリップする(これは非常に特徴的な設定である。このような物語装置を用いることで、原作を引用しつつも、自由に組み替えることが可能になる)」、「主人公が作った正義の組織が活躍する」、「擬人化するロボットや敵モンスター」97といった原作から見れば突飛なものが存在する。そのうえ、この段階では既に原作を経ずに、このような情報を参照する二次創作にのみ触れる層も存在している。
このような状況に至っては、二次創作を含む作品(シミュラークルあるいは小さな物語)の背後にあって個々の物語を審判する基準となる設定・世界観(データベースあるいは大きな物語)という関係は既に希薄である。ごく控えめに言ってもそれは原作を支えるデータベースを適切に共有している、とは言えず、そこでは原作を含む世界観と作品という対応関係はもとより、それに替わるかと思われたデータベースとシミュラークルの厳密な対応関すらはもはや成立しない。ゆえに正確に言えば東の使用した用法とは異なってくるだろうが、一応データベース消費の構図に従って言うなら、そのような局面における二次創作は、原作の背後にはない、にもかかわらず複数の二次創作に参照されている二次創作独自の(あるいは原作の背景にあるデータベースの周辺に成立した)データベースの読み込みを、しかも原作のそれと混在して読み込むことを要求している。ゆえに、このような局面においては大塚による物語全体の背景となる大きな物語を想定する物語消費論も、その修正として登場した東による作品に先んじて優越するデータベース、そしてシミュラークル対データベースの単純な対応関係と核としてのデータベースの優位を前提とした素朴なデータベース消費のモデルも、共にうまく機能しない。
ここまで、東および斉藤の提唱したおたく像、東の述べた世代変化による解釈とポストモダン化の影響、データベース消費論と物語消費論など、先行研究として取り上げた種々の議論について、今回の結果に触れながら考察を重ねてきた。
それらの考察からは、各論者の述べるようなおたく像は世代ごとの特徴としてではなく(確かに世代ごとに傾向の多寡はありえようが)ある程度並存し、また二次創作に起きる、そのような複数の担い手と作品同士の関わりによって起きる変化はデータベース消費論(や物語消費論)によっては上手く説明できないことが解った。よってこれらの理論は現状認識の大きな助けにはなるが、前項で述べたように、二次創作内部の移り変わり、そして再生産の果てにある状況が明らかになった「二次創作」という文化の構造の一般的な説明として用いることが困難である。
そこで本節以降では、ここまでの考察を総合的に考えながら新たな、あるいはこれまでに提出されたモデルの代替・修正となるモデルを考えていくことにする。
本研究の結果から、二次創作において作品の再生産がある程度進んだ段階では、原作において参照されている設定とは明らかに齟齬を起こす設定が複数、しかも一定のまとまりを持ったセットとして流通している場合があることが明らかになった。なお、この場合の「設定」は、狭義の背景設定に加え、人物造形や筋書きを含んだ物語の類型も含まれる。
この現象をその発生から順に辿ってみよう。それらの設定はまず、既存の二次創作を受けて姿を現す。それらは二次創作ではあるが、しかしその実、原作には存在しない設定を追加している。その特徴的な設定は確信犯的にそれらの設定を引用、流用する作品群を誘発し、いずれその設定を成立させる原因となった作品と、その影響を受けた作品同士がひとつのジャンルとして扱われるようになる。ジャンルが発生したことでその特徴的な設定を制作者・受容者間でいわば共用していることが可視化されることになり、これ以降同様の設定を利用した作品はジャンルに初めからカテゴライズされる形で成立することになるため、その制作は容易になる。
以上がジャンル発生の一連の流れであるが、最終的な段階になると、むしろ原作やその設定からの影響よりも原作の外に成立したジャンルからの影響の方がより大きい二次創作が成立するようになることは既に述べた。データベース消費論や物語消費論による説明から外れた事態が発生していると考えられるのは端的にはその局面においてである。そこでは言うなれば原作からは参照されないデータベースからの参照、つまりはシミュラークルからのデータベースの選別が行われている。それゆえそこで参照されるデータベースは、従来のようにデータベースを基準として可否が判定されるシミュラークル(あるいは、大きな物語を基準として判定される小さな物語)、という対応関係から直接には把握できない。なぜならば、そこでは実際に制作されるシミュラークルからデータベースが発生する、という状況が起こっているからだ。
このように流動的・相互依存的なものとしてデータベースとシミュラークルの関係を捉える見方は大塚の議論や東の議論からは逸脱している98。作品同士の関係、個別の作品から参照のされ方が影響して、設定や世界観の在りようを決定するという一種の逆転状況はもちろん物語消費論においては想定されておらず、またデータベース消費論においても重視されてないか、否定的である99。
しかし、上記のようなジャンル主体の二次創作の周辺領域の状況を見てみても、そのような関係を考える方がより当てはまりがよいと思われる。複数の異なった原作の設定・世界観を参照するクロスオーバー系の作品や、それらの明らかに原作の設定から外れている独自設定の組み合わせにその多くを依拠する作品群が存在し、しかも制作者においてもその状況の変化、各局面の代表的な状態に対応する特徴を持った複数の像が浮かび上がっていることなどは、そのような関係を考えなければ説明が難しい。
実際、このような視点で見ると状況は以下のように説明できる。ひとまずは東の用いた用語を援用するが、既に多数のシミュラークルが成立した段階では、特に有力な作品の影響によって、独自、あるいは周辺的なデータベースが成立している。それぞれデータベースの中に含まれる設定は相互に矛盾を含んでおり、この段階では、それらデータベースの内どれを参照するかについて一種の選別が働かざるを得ない。この時、データベースの地位はシミュラークル対シミュラークルの関係というシミュラークル側に由来する基準によって影響され、決定される。具体的には、他の作品におけるデータベースの参照のされ方、すなわち「既存の(有力な)二次創作=シミュラークルがどのデータベース(どのような作品によって成立したデータベース)を参照しているか」という情報が、新規に作られる二次創作が参照するデータベースの優先度・地位を決定している。
表層は深層を読み込むのであり、基になっている深層こそが表層の可否を決めるというのが、従来考えられたデータベース消費論における二次創作の構造であった。しかし、今回明らかになったように、ある局面ではデータベースとシミュラークルの関係はもはや単なる「読み込み」からは逸脱する。そこではシミュラークルの作成は(奇しくもオタク文化全体について東が語ったデータベースの変化の原因を明らかにする形で)データベースの在りようを変える一種の操作になるという面を持つ。このように考えると、そこではもはや所謂「第三世代」的オタク(の自然発生的な、原初的な二次創作)に的を絞って設定された関係は逆転していることがわかる。
以上のように、二次創作における時系列変化と再生産の効果、また加えて第一節に述べた制作者層の移り変わりを視野に入れると、大塚による「大きな物語-小さな物語」という概念からも、東の述べた「シミュラークル-データベース」の概念からもそれぞれ逸脱した部分が存在する。それゆえ物語消費論はもとより、データベース消費論もまた、その基本的な有効性は揺らがないものの、もはや二次創作のような創作・消費行為についての一般的なモデルとして説明力にやや欠ける。
いまや、二次創作についてその状況を模式化するモデルを考える場合、他の作品がどのような作品によって成立したデータベースを参照しているかという情報が他の作品におけるデータベースの参照のされ方に与える影響、いわば「表層からのフィードバック」などの効果を評価し反映するようなモデルを導入する必要がある。それは以前の理論では重視されていない作品同士の関係、原作と二次創作、そして二次創作同士の関係、及び二次創作からの参照が増加することによる効果などを繰り込んだモデルとなる。
以上の議論を受け、本研究では今回の研究の結果明らかになった二次創作の状況と構造を説明するモデルとして下図4のような「参照系モデル」を提出したい。本研究にて明らかになった、データベース消費論では理解しにくい物語そのものの参照とそれによる間接的な(広義の)設定の読み込み方を含む参照関係とその影響は、このモデルに沿って捉えるとすっきりと理解できる。二次創作においては原作や場合によっては既にある他の二次創作を、世界観・プロット・キャラクター等々をより効率よく参照させるための参照関係の束(以下、筆者はこのような束を「参照系」と呼ぶことにする)、として利用(消費)する形で作品が成立しており、また逆に、そのような系に参照されることで、データベースは常に再定義され、更新されている側面がある。
参照系モデルでは、二次創作は原作の設定を直接参照するだけでなく、原作がその設定をどのように参照しているかという情報も間接的に参照して制作され、その場合受容者は原作という参照系を介して、二次創作では直接は読み込まれていない情報を読み込むことができる。また逆に、原作を経由先として選ばない場合には、その不足部分が二次創作において新たに示される参照関係についての情報、そして他の二次創作がどのような情報を参照しているかという新たに生じた系によって補われることもある。その経由先については「クロスオーバー」などの作品を加味すれば、商品として流通している作品を経由している場合もありうる。即ち、ここにおいては、別種の作品の二次創作は別種のデータベースへ、というデータベースからの分類はもはやそこまでの意味を持たない。
このモデルはその名称として最終的な消費の対象である「大きな物語」や「データベース」などを含まない。そこからもわかるように、本モデルが問題にする議論は物語消費論、及びデータベース消費論の両者と論点がやや異なっている。物語消費及びデータベース消費のモデルと本モデルとの間にある差異は、消費しているものの差異や、深層と表層の関係を認めるか否定するか、といった差異ではない。両者との差異は、むしろそれらの議論で提唱された関係性を認めた上で、そこに示されていないが重要であると考えられる影響力をどの程度までその理論に繰り入れるかと言う点での差異である。その意味では、本論はより正確に述べれば両議論の反証ではなく、その修正、それらを一部として含んだ記述となる。
二次創作の制作者を含む受容者は、大塚が指摘したような大きな物語を消費していないわけでも、東が消費したようなデータベースを消費していないわけでもない。彼らは確かにそのような理論に示されるように個々の物語を通して、その背後にあるものを消費するという振る舞いをもする。より正確には、「消費されるもの、参照系はある局面でそのような振る舞いをする場合もある」。
けれども、データベースにしろ、大きな物語にしろ、そのような振る舞いは絶対的なものではない。受け手、そして作り手は個々の物語を通してその背後にあるものを見る場合もあれば、ある物語を通して他の物語を見、そこから間接的に背後にあるものを捉える場合もある。言い換えると、参照系としては同類であるところの「個々の物語の背後にあるもの」そして「個々の物語」はその在り方を深層、表層という区分けに限定しない。参照系は単体の物語として振舞う場合もあればデータベースとして振舞う場合もあり、またそもそもそれらは不変ではなく、参照によって更新されるという一定の可塑性を持つ。
このような視点から二次創作、そしてそれを含むシステム、創作と参照のネットワークを見つめた時、そこには二次創作と原作、原作と背景、二次創作と背景、二次創作と二次創作、という多層的な関係性があり、その中に入り組んだネットワークが何十にも張り巡らされている。それがどのような振る舞いを見せるか、どの関係がより強調されるかによって、ネットワーク中の参照系は多様な様態を示す。そのように、これまでの議論の周辺に存在するものまでを含む(そして、その議論の中で相互に噛み合わないまま示されていた考え方を統一する)二次創作の一連の状況を記述するモデルへと議論の拡張を行うのが、参照系モデルの目的であり利点である。もちろん、前章に示したようなサイクルを通じて変化する二次創作を記述するには、東の述べるような歴史的推移に応じたモデルの切り替えとしてではなく、これまでに提唱されてきたものも含まれる統一されたモデルとして示される必要があり、その点でもこのモデルは有効である。
よって以下では、本モデルを用いながら、先ほど問題にした原作と二次創作との関係、及び二次創作のサイクルについて説明を行っていく。
参照系モデルを適用する場合、原作と二次創作、そして時期的に先んじた二次創作と遅れた二次創作の間には、その作り方には違いはなくとも(その意味ではデータベース消費論的な原作と二次創作の等価性は正しい)、その作品としての在りよう、即ち、それら深層への参照がどのように行われているか、そして深層と呼ばれる部分の地位の大小に関して大きな違いが生じうることになる。何故なら、二次創作は原作を引用しうるが、その逆は基本的にはないからだ100。これは、例えば大塚が指摘するような、二次創作はその作品を成り立たせる「場」を原作のそれに依存している101、というような感覚により当てはまる。二次創作の持つある種の気軽さも、このような関係を考えれば特に問題なく了解可能である。
また、これが一番重要なことであるが、二次創作の時系列変化や、より後に現れる二次創作同士の関係が発生する理由についても同様にこのモデルから説明可能である。より初期の段階において設定は「深層」として(それが受け手からは見えにくい場合もあるにも拘わらず)求められ、またその正確さがある程度、規範としての力を有していることは先の議論で明らかになった事柄である。しかし、時系列を追うに従い、その強制力はゆるやかに薄れていき、やがて別種の影響力として二次創作独自の設定が発生し、相対的に影響力を強めていく。
このような変化に参照系モデルを当てはめると、二次創作の黎明期において参照される設定がぶれを持たず、「深層」としてある程度の強制力、説得力を持っているのは、それが原作、というその時点で唯一強力と看做されうる参照系によって参照されているからである、ということになる。そこでは設定はそれを直接引用した二次創作を制作する程には明らかでなく102、原作を経由してその在り方を測る他ない。しかし、その後設定が了解されるにつれ原作の位置は低下し、時代が下り本当に原作と等価に二次創作が消費される状況に至ったときには、そこではむしろ複数の参照系から参照されている設定について、それらがどのくらい多くの(影響力のある、有名な)参照系から参照されているのか、という系からの参照量を基準にして設定が選ばれることになる。
さて、以上に述べたように、二次創作においてはこのような参照系、即ち相互の参照を基準とした関係を繰り込むことによって、その仕組みを記述することができる。二次創作の一連の流れから検証した通り、これはある程度の一般性を備えている。だが、とはいっても実際には背景となっている社会的状況や技術的背景に左右される限界がある。ゆえに、本項では最後に、本論の弱点、課題と、以上のモデルが成立する条件について簡単に述べておきたい。本論、及びここで示されたモデルにおける大きな弱点は、やはりその例証の少なさである。もちろん研究においてはできるだけ一般的な性質を導くことを旨としたのは当然ではあるが、やはりとりあげた作品及び小説と言う分野に特徴的な部分に影響された部分は多い。よって以下に二つの論点を提示し、今後同様の研究を行う場合に注意すべき課題としたい。
第一に、本論は一作のファン層を分析する、という部分に基本的には留まっている。多数の分野を往復している書き手や、別の作品についての二次創作を行っている層に対する聞き取りは無論行ったが、本格的に複数の作品を通じた検討を行うことは不可能であった。そのため、本論における理論的な展開は一般性に欠ける部分がある可能性がある。
特に本論の前段において中心的な課題であった二次創作のサイクルについて述べると、それぞれの作品についての二次創作が『新世紀エヴァンゲリオン』が辿り着いた段階まで至る前に勢いを失い、散逸してしまうという事態をまず考えうる。また例えば、他作品についての二次創作に言及する際に触れたが、ファンの中心となるコミュニティの振る舞いや、原作の制作側の振る舞いいかんによっては、ジャンル化が疎外されてしまい、今回示したようなサイクルを辿らない場合も考えられる。参照系における説明はそのようなサイクルのバリエーションもある程度カバーしているが、その有効性は議論の対象となるだろう。
第二に、本論において触れた二次創作が特にインターネットという相互の参照がそれまでよりもさらに容易であり、かつ即時的な反応が可能な技術を基本的なインフラストラクチャーとして持つような時代、そのような技術的背景の基で成立したものであることも注意すべき点である。先ほど上げた失速の例でもそうだが、相互の参照性を問題にしている以上、ある一定より参照性が低い形態を持つメディアにおいてはそのモデルは上手く働かない可能性がある。
それゆえ、ここで挙がった「相互の参照性の強いメディア」「反応の即時性が出やすい」「受容者層がある程度密接な関わりを持つことが可能である」などの点は、本モデルが適用できる二次創作(そして、近似の形態を持つ文化)の成立条件として考えることができ、以降の研究ではその点についての検討が望まれるところである。(とはいえ、ここから、本論における議論がインターネットというインフラでのみ生じる特殊な事態と考えるのはやや尚早であろう。ここまで可視化されないまでも、同様の事物を題材に取った、ある程度閉じた制作者のコミュニティ――例えばコミックマーケットのような空間を考えてもよい――では同様の自体は常に生じうるからである)
本研究における重要な結論は、ある作品における二次創作およびその制作者はその始まりから終わりまで、一定の法則性をもったサイクルによってその中心的な性質を変化させるということであり、もはや一面的、または無作為な文化そして集団として理解されるべきではないということである。このことは、たとえ全ての作品の二次創作について分析を行ったわけではないとしても(二次創作内部での積み重ねとその参照、原作となる作品に由来する揺らぎの検証という点から言えば、より新しい他の二次創作についても同様の研究を行うことは今後の課題であろうが)、明らかなことであろうと考えられる。
また本研究におけるもうひとつの重要な結論は、このような実証的研究によって反証された二次創作やおたくを対象とした既存の理論の修正として示されるモデルである。これはデータベース消費論、及び物語消費論に二次創作同士の関係性、及び作品の参照を通じた間接的な背景設定の参照という観点を繰り込んだモデルであり、それによって一連の変化を含めた二次創作の仕組みを記述できる。これは二次創作においてたびたび発生する過度の省略や、二次創作において生じた独自の設定によった創作といった事態によく当てはまり、また前段で述べた二次創作のサイクルの記述としても有効性を持っている。
以上の結論は今後の二次創作ひいては二次創作に近しい条件を持って行われる創作活動の分析や、その基点となったおたくに関する研究にとっても重要なことであり、その重要さは、今回調べられたサイクルが将来行われる二次創作の推移との比較によって修正される可能性や、また反証した理論に対しての対案がさらに広範な理論によって再度修正される可能性があったとしても減少するものではない。
二次創作を視ることは難しい。
ましてや、二次創作から視ることはなおさら難しい。少し気を抜くとそれは他の議論、おたく論や創作論などに絡め取られてしまう。というか、後半は若干からめとられてしまった感もありますが(というのが元バージョンの記述で、改訂版ではむしろ進んでそちらへはまり込み、二次創作の原理について追いかけていくことになりました)。しかしそれでも基本的には、この研究はかなり禁欲的に、二次創作を視ること、二次創作の視点から視ることに徹した研究になったのではないか、と思っています。
このような立ち位置は、実際のところかなり後になってからようやく立てるようになった場所でした。本当はなんでもないことなのかも知れないが、おたく批評とそこでの論争というなんだかどうしようもない入口からこのような分野に興味を持った者にとっては、出発点としてそれらの論争に過度に没入せず、実態から語ってゆくことはかなり難儀なことではあったのです。
現にインタビューにおいても、その時にはまだ焦点が定まってなかったnorthはおたくに関する質問をたくさん行いました。どう考えてもピンボケでした。ですのでこのような質問については直接生かすことができず申し訳なかったのですが(後半でおたくの世代論に触れる際にはもちろん非常に参考になりましたが、全体から見るとその扱いは小さくなりました)、しかし、そのような答えを初めとしたいくつもの表に出なかった情報をバックグラウンドとして強度を高めることができたお陰で、なんとか「ただ抽象的議論に口出しをしただけ」ではないものにすることができたかな、ととりあえずは思っています。
だから、この研究がいささかでも論文らしいものになっているとすれば、それはまずはインタビューを初めとした様々な取材に協力して下さった方々のお陰です。メッセンジャーであれ、メールではなおさら、不躾な質問を送りつける不審者に違いなかった(二次創作で卒論を書く、と言ってもあんまり信用しがたい面もあるでしょうし)にもかかわらず、ご協力下さった多くの方に深く感謝したいと思います。(また、残念ながら答えていただけなかった方には、不躾な質問を送りつけてしまったことを改めてお詫びしたいと思います)
また、歴史をまとめる上ではここまで10年に渡って積み上げられてきた二次創作それ自体もさることながら、志を持った方々が残してくれた財産である年表やインタビューの記録にたいへんお世話になりました。それらがなければ、特に古い時代についてまとめることは不可能でしたし、この研究自体が不可能になっていたでしょう。10年を越え残り続けた二次創作、それをまとめた研究、語り継ぐ記述、どれが欠けてもこの研究はありませんでした。これまでの二次創作制作者の皆様、そして読者の皆様、そしてもちろんさまざまな記録を残してくれた方々に、深く感謝したいと思います。
(とはいえ、ここに示したのは最終的にはあくまでもnorthの手によってまとめられたひとつの「史観」であり、できるだけ事実に則してまとめようとしつつも、結果として捨象されてしまった特異な事物も多くある、という点に関してはここに付記しておくことにしましょう)
二次創作(を/から)視ることは難しい。けれど、面白い。
この何でもないような表現には、様々な人が参加し、書き、語り、読み、反応し、また去っていきます。原作の影響力、これまでに生まれた作品の影響力、ジャンルの影響力、そしてそれを担う人々の思い――二次創作という文化の形はそれら様々な力で象られ、今も刻一刻と変化を続けているでしょう。そして、それはエヴァの二次創作においても同じ。新しいメディアでの展開、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の展開などなど、インターネットにおいて恐らく最長寿を誇るエヴァの二次創作の火種はまだまだ(たぶん)消えていません。
この文化の果てに何が発生するのか、あるいは何もかも消え去ってしまうのか。その答えはもう少し未来にあるようです。あなたはどうしますか? それはわからないけれど、northはとりあえず、今後も二次創作の片隅に身を潜めて、その行方をこっそりと視つづけていくことにします。